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新田と足利将軍家とその一門の家系図

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天使野獣先輩
天使野獣先輩
こんにちは。
今回は新田家足利家とその一門に関してやっていきたいと思います。
解像度の関係で縦に分割した家系図となったおります。
携帯だと小さいのでなんとか画像を拡大してみて下さい。
下に続く




まず新田と足利は元は兄弟で八幡太郎源義家三男の源義国の長男が新田義重で次男が足利義康です。
父の義国は栃木県の足利を開墾し鳥羽上皇に寄進して荘園にしてもらいこの土地を管理する権利を得ました。
後に足利荘は次男の義康が相続します。
義重の方は元々あった群馬県高崎市の八幡荘を相続する以外に新田郡の開拓を行いました。
義重義康兄弟が生まれる少し前の1108年に浅間山の噴火がありあたり一面火山灰が降り積もってしまい
この土地を開墾することで所有権を主張したものと考えられます。また豪族通しの緊張関係が生まれたようです。

その後義重は周辺の秩父氏(子孫に薩摩の伊地知正治)、藤姓足利氏(藤原秀郷を祖とし足利荘を本拠とした)
と戦い勝利し北関東の地盤を固めました。
一方義康の方は荘園寄進の縁から鳥羽上皇の北面の武士として仕え、保元の乱では後白河天皇方として勝利し
その功績により蔵人(天皇の秘書的な)従五位下になり兄義重より先に昇殿を許されました。義重の保元の乱時の動向は不明。
(従五位下なんか銅プレと思うなかれ、貴族の仲間入りです。そして官僚)

婚姻関係について。家系図には書いてませんが義康は源頼朝の叔母と結婚しました。ちなその姉は由良御前。
息子の足利義兼は北条時政の子、時子と結婚。
以後上杉氏との結婚もありますが執権北条氏と結婚し結びつきを強くしていきました。
尊氏の嫁赤橋登子も北条氏です。

逆に義重の方は1180年の源頼朝挙兵の際すぐには動かず頼朝の不信を買いました。
その他目立った活躍もなく新田政義は京都大番役で京都の警護をしていたが、
幕府に無断で朝廷に任官を求め断られるとまた無断で出家し幕府に出仕しなかっため
それまで源義家と近い家柄であったため有力御家人としての立場であったが、
一地方御家人に落ちぶれました。


この政治力の差は義貞尊氏にも現れていて、
尊氏が幕府側として島根で決起した後醍醐天皇を倒しにいくのを途中で裏切り京都六波羅を攻め落としその後関東で挙兵し鎌倉討伐を行った義貞方にも息子の義詮を送り自分の名代として義貞に手柄を独り占めさせませんでした。
また鎌倉陥落後にも義詮を鎌倉に置き細川和氏を派遣して鎌倉の支配権は足利氏が握りました。

結果与えられた官位も所領も足利新田では大きな違いとなったのでした。

この後は北条の残党が北条時行を擁立し鎌倉を占拠、これを無許可で征伐した尊氏
鎌倉に武家政権を築こうとし後醍醐天皇は尊氏、直義追討の命令を義貞に出し南北朝の争いが始まります。

調べるのに疲れたので歴史の話は終了。

一門について
室町時代の管領職は斯波、細川、畠山家で受け持ちましたが全て足利一門です。

新田の方からが英傑大戦に関係するとこで里見、山名、世良田の家が生まれました。
世良田は家康の祖父清康が末裔であると自称した家名です。

そんなところです。次は南朝方と第4弾に藤原家のカードがあるのでそれを紹介したいと思います。

それでは(終)




 
作成日時:2024/09/29 21:37
コメント( 1 )
べし
文士
文士
べし
9月29日 22時31分

スゲー。
メチャクチャ細かいですね。
調査と整理、お疲れ様でした。

天使野獣先輩
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