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中村半次郎について紹介

by
完全超悪
完全超悪
『チェストオオオオォ!』

中村半次郎 3.5コスト 剣豪 玄
武力10知力4
先陣 気合 技工
計略
???




おっと…いきなりすみません、本来は今後に登場するであろう偉人たちの紹介を予定しておりましたが… 映画 『半次郎』を観まして、知らない方が居られるであろうこの方をご紹介します。

〘必ず斬る〙と言われると河上彦斎 近藤勇 中村半次郎の3名しか記録に残って無いそうです。中村半次郎に対しての近藤勇は、『中村半次郎には絶対に手を出すな』と隊士に注意していたそうです。ではそんな人斬り半次郎ですが記録にある暗殺は、たったの
1回。赤松小三郎という軍学者会津藩との密通が原因だそうです。赤松小三郎の弟子でもあった半次郎は、この赤松小三郎暗殺には身内で親しい間柄だった為に少し傷心したとか。その実、斬ったのが裏切る可能性のあった者が複数であった為、記録に残せなかったかもと真偽は定かならず。

※私の私感が強く滲んでいます、ご注意ください※

中村半次郎…後の名を桐野利秋(きりのとしあき)は〚帝国陸軍少将〛〚従五位〛にまで成る男…。

1838年薩摩藩(鹿児島県)の下級武士の子として生まれます。彼は祖父から読み書きを習い、三国志等の戦記物を好んで読んでいました。そんな半次郎は頭抜けて光るモノを持っていました。
そう…剣術!半次郎は初めは独学で剣術を学ぶ中で、一撃必殺と名高い

薩摩示現流の分派である小示現流と出会い、研鑽を磨き最早敵う者無しと言わしめる達人の域にまで達し、とある逸話では 落ちてきた水滴を地面に落ちるまでに3回抜刀し3度斬った と言われる腕前であったとか…。まぁあくまでも逸話ですから。しかし下級武士の子とはいえ、家は貧しく…薩摩芋を売って暮らしていたがために【唐芋侍】と馬鹿にされておりました。そこで半次郎は馬鹿にされまいと大太刀を持ち歩いてイキっていたとか…。周りはそれを危ないヤツと感じる中、一人の侍に因縁をつけられますが半次郎は獲物は抜かず『やりやっても無意味だ』と諭すと…その侍は半次郎に自分の仲間たちを紹介するようになる、そのツテであの西郷隆盛と出会うことになりました。

※西郷隆盛の肖像画は彼の父がモデルで名前も父の名で本名は【隆永】(たかなが)で半次郎と出会った頃は【吉之助】(きちのすけ)で、このミスは彼の親友の【吉井友実】(よしいともざね)が届け出た為です。写真が無いのは彼が写真嫌いとも写真を撮る機会がなかった程に多忙だったとも。

西郷は半次郎と同じく身分が低かったが、藩主の島津斉彬(しまずなりあきら)に認められて西郷は薩摩武士のリーダーにまで大出世! 西郷は半次郎の真っ直ぐで純粋な性格を甚く気に入り、半次郎も西郷を常に支えて師弟ともとれる間柄だったようでした。この頃にあの

八月十七日の政変 が勃発。当時の幕府と薩摩藩はお互いを潰そうと考えており、時勢の情報が必要になります。そこで白羽の矢が立つのは…この中村半次郎である。
半次郎は
スパイとして敵対している長州とも同じく尊皇攘夷思想であった半次郎は自然に内部に溶け込み、頻繁に西郷へ情報の手紙が送られる。人斬り半次郎などと呼ばれることが多い昨今ですが、西郷の手足となって活躍したのは、なにも【武辺一倒】では無くて、この諜報活動が大きく実際に半次郎か、西郷へ送られた手紙が現存しています。半次郎の他にも数名、諜報活動を行ったものの、半次郎以外の者からの情報は委しく(くわしく)分からない。とも西郷は記録しています。そんな半次郎を危険視した幕府に、あの薩摩藩家老【小松帯刀】は『役に立つのならば国家のためになります、そうでなければ捨てるまで』と半次郎をフォローしました。また、藩がとても落ち着いた薩摩藩は事前に他国の情報を半次郎から得ていた処が大きい。その半次郎の交友関係は坂本龍馬、中岡慎太郎とも繋がっており、彼らの協力もあり 

同盟の締結にまで繋がりました。

その後、半次郎は鳥羽伏見の戦いにて
刀を三本変えながら36人斬り殺し無傷であった証言もある。この活躍で一躍、出世し司令官となります。司令官として会津戦争では城の受け渡しを担当し会津藩主松平容保のズタボロの姿を見て男泣きしたと。ここから名前を桐野利秋と名を改め陸軍少将へと大出世を果たします。
ここから半次郎は、
北海道へ南下するロシアを脅威とし北海道の地理を調べ札幌に軍を置き開拓を提案します。ですが、その案は聞き入れられませんでしたが後の屯田兵の元になりました。その後、新政府でもキリスト教禁止を受け継いでいたが、半次郎が信仰の自由を発案し、それが岩倉具視に受け入れられ自由になります。その後、【征韓論】で西郷と大久保利通とで揉めてしまい最後には士族の不満の溜まった事で国内最後の内戦、西南戦争へと発展していく…。半次郎は最初は戦争を避けようと奔走するが停めきれず、西郷と最期を共にした…。戦いは序盤から優勢ではあったものの医者が開発したガトリング砲などの新兵器や兵力に徐々に押されて半年…西郷は、解散命令を出します。しかし半次郎は『事、此処に至りては快戦し、死あるのみ』と最期の言葉を残し戦うも、流れ弾が西郷の腹部に被弾したことで西郷は仲間に首を斬らせ果てた…西郷隆盛(西郷隆永)享年49歳。『二つなき 道にこの身を捨て小舟 波立たばとて 風吹かばとて』辞世の句です。
それを看取った半次郎は敵軍へ突撃するも額に銃弾を受けるも、咄嗟に短刀を抜き、自らの喉を貫いた。中村半次郎(桐野利秋)享年39歳。辞世の句『曇りなき 心の月の 清ければ 千歳の秋も さやけかるらん
西郷隆永に従い戦い抜いた人生、我々にも学ぶべき所はあるでしょうね。寿司屋に迷惑かけてる場合じゃないですね!!!

最後に…
豆知識として西郷隆盛は東郷平八郎の親戚だったようです。そして数多くの薩摩武士が鎬を削る流派、示現流の稽古を動画や映画で見ると凄い迫力で複数本の木に向かって叫びながら延々と剣を振るう姿は圧巻です。映画でみた半次郎もこうして戦ったのなら敵として示現流で向かって来られたら敵兵からしたら叫びながら向かって来られるのは恐怖でしかありません。『示現流の太刀、かわせる者なし!』 

最後まで長々と付き合って頂きありがとございました🙇‍♂
更新日時:2023/02/03 00:13
(作成日時:2023/02/02 23:47)
カテゴリ
雑談・雑感
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