どうも、王桃盗賊団の者です🍑
今回はかなり久々に
歴史話という事で、テーマとなるのは
征夷大将軍という役職についてです⚔️
何故急にそんな話をするのかと言うと、実は先日英傑大戦とは全く関係ないところで
坂上田村麻呂に関するお話をした為です

その際に、結構多くの方が田村麻呂を
初代征夷大将軍だと認識している事を知りました🧐
確かに学校で学ぶ歴史の授業では、征夷大将軍という肩書で最初に紹介されるのは田村麻呂であるケースが殆どなので、そう認識していてもおかしくないと思います
しかし実際のところ、これは
間違いです❌
まずそもそも田村麻呂は征夷大将軍としては
2代目であり、初代は
大伴弟麻呂という人物です🙄
ただし弟麻呂は征夷大将軍に任じられた時点で
還暦超えのおじいちゃんであった為か、当時は在京のまま戦地へ赴く事はあまりなかったようで、割と早々に当時40歳の田村麻呂へ将軍職を譲っています✋
征夷大将軍在任時の戦歴が目立たない事で、逆に
目立ちに目立ちまくっていた田村麻呂が初代だと誤認されているのではないかと思います
というわけで今回は、そんな感じで色々と誤解されがちな征夷大将軍についてしっかりとお話ししましょう😎
是非お付き合いくださいませ
まずそもそも征夷大将軍という名称自体ですが、これはその字面の通り
「夷を征する大将軍」を意味します🙄
では
夷とは何かと言うと、本来は古代中国において
東の方にいる異民族を指す言葉
東夷(とうい)から来ており、転じて
敵対的な異民族全般を指す言葉として扱われていました✋
ちなみに北の方にいる異民族は
北狄(ほくてき)、西の方にいるのは
西戎(せいじゅう)、そして南の方にいるのは皆さんご存知
南蛮(なんばん)と言います
日本でも当初、征夷とは太平洋側(陸奥国=岩手県周辺)にいる敵対勢力を征するという意味でした👉
同じ意味で
鎮東という言葉も存在し、史料に残る征夷大将軍的な仕事=東の敵対勢力討伐を任されていた役職は
鎮東将軍という名称です✨
なお鎮東将軍の初代は
巨勢麻呂(こせのまろ)という人物で、この頃は他に日本海側を担当していた鎮狄将軍という役職も存在していたそうですね

なお巨勢麻呂は和銅2年に鎮東将軍に就任していますが、この和銅年間には有名な⬆この
和同開珎が鋳造されています💰
しかし敵対勢力が少なくなってきた事で太平洋側・日本海側を区別する必要がなくなった為、弟麻呂の代からは征夷大将軍が甲信越地方より先の全ての地域を担当するようになりました✌️
とはいえ弟麻呂の代から実質的に部隊を指揮していたのは
田村麻呂ですから、肩書上は2代目でこそあるものの、実際の征夷大将軍の仕事内容を初めて実践したのは確かに田村麻呂で合っていますね🥴
ともあれ、こうして征夷大将軍という役職ができたのです
その後、征夷大将軍という名称は一時的に歴史上から姿を消します💨
まぁ単に
征東大将軍という名前で
藤原忠文や
木曾義仲が歴任してはいるのですが、比較的平和だった平安時代の間は常設の役職ではなかったようです
しかし平安時代の末、一気に風向きが変わります🍃
そう、
源頼朝の征夷大将軍就任です

頼朝はそれより以前は
近衛将軍という役職でしたが、これは近衛という言葉からも明らかなように
皇室の近く=京を護衛する役職でした🛡
しかし頼朝は在京のままでは全国の武士を統率できない上、未だ勢力を維持している
奥州藤原氏などに対抗できないと考え、新たな肩書を求めたのです
そこで朝廷は
「田村麻呂が就任した吉例があるから」という理由で征夷大将軍という名称を提案、ちょうど奥州藤原氏追討に相応しい名称だった事もあり、頼朝はこれを承諾し着任しました👍
こうして在京の必要がなくなった頼朝は
鎌倉へ移り、全国に守護を配置=
封建制を成立させて支配体制を強めた上で、勝手に官位を得た弟
義経諸共に奥州藤原氏を征伐したワケですね
実朝の代で源氏の治世は終わってしまったものの、
政子や
泰時によって代わりの将軍
藤原頼経が立てられました👑
しかしこの頼経の一族
九条家が権勢を振るい始めると、泰時の孫に当たる第5代執権
時頼によって追放され、今度は天皇家から将軍を摂るシステム…いわゆる
宮将軍の形が始まりました
ただしこれもまた
大問題で、天皇家の介入が増えていった末に
後醍醐天皇が自ら幕府運営も行う…いわゆる
建武の新政が実行されるに至りました💥
これに際して北条得宗家を排除すべく行われた鎌倉侵攻で名を挙げたのが
足利尊氏であり、また親政を行うに当たって立てられた名目上の征夷大将軍が
護良親王になります


しかしこの
ワケわからん人こと
尊氏も結局後醍醐天皇と敵対しています🤪
そして後醍醐天皇を追放した後に自らが後ろ盾となった光明天皇を立て、彼から任命してもらうという
半ば自作自演のような形で征夷大将軍に就任し、南朝討伐の名目としました👑
ただし南北朝の混乱は根深く、孫の
義満が事を治めるまでいざこざは続いています💦
そこからは足利将軍家の治世が始まるワケですが、これは皆さんご存知の通り
信長が
義昭を追放した事で終焉を迎えます☠️
ただし信長およびその意志を継いだ
秀吉は征夷大将軍とはならず
朝廷での権力を得る事で、建武の新政とは逆に
武士主導の公武一体化を図りました💪
これは秀吉の代では実質ほぼ成功したと言えます
しかしそんな中で
家康は
豊臣への不服従を表明すべく、関ヶ原で反対派を一掃した上で征夷大将軍へと就任します👑

こうして江戸幕府が開かれました✨
そして最終的に
慶喜が大政奉還をした事で将軍職は再び白紙となるワケですが、明治政府の実質的トップであった
利通は
頼朝以来続いていた封建制を廃し、そして武士という身分そのものを無くしました😇
こうして、田村麻呂の就任以来1000年以上続いた征夷大将軍という肩書は消滅したワケです
こうして見ると、実は一口に征夷大将軍と言っても当事者達の目的は結構バラバラです✋
田村麻呂は純粋に大和政権に仇成す敵を倒す為💪
頼朝は封建制を成立させて武士の社会を作る為⚔️
尊氏は後醍醐天皇らの南朝を正統に討伐する為🔥
家康は豊臣政権への不服従を示して独立する為🏆
それぞれ独自の思惑があった事が分かりますね
そして征夷大将軍の
夷という漢字が表す対象…つまりは当事者にとっての敵対勢力も、その時々によって変わっていきました🤔
言葉の原義通りであった田村麻呂はともかく、頼朝は地方政権の奥州藤原氏、尊氏は後醍醐天皇ら南朝、家康は豊臣政権が敵となっており、時代を経るごとに原義からはどんどん離れて行っています
こうした変化を連続して見てみるのもなかなか面白いですね
というわけで、征夷大将軍のお話でした🙇♀️
思えばここに挙げた代表的な征夷大将軍達はみな全体強化計略持ちというのが綺麗ですね✨
皆さんも是非各々好きな征夷大将軍を使ってみて、その歴史に触れてみてください✋
今回は以上‼️