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武将考察の巻【その3-1:琥・平安(坂上田村麻呂)考察】

by
湊氏
湊氏
第4弾-2でついに平安区分が解禁されました!
登場した武将は、坂上田村麻呂鈴鹿御前
平安初期のビッグネームですね!

ーーでもよぅ。
流石に2人だけで全部ってことはないよなァ…?🤔

ということで、今回は坂上田村麻呂に焦点をあてて
今後この区分に該当しそうな武将を考察してみます!

あくまで湊氏調べのため、考察不足や解釈違いがある可能性があると思います。
異論は認めるッ!むしろ異論を見たいッ!みんなで考察したいッ!

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史実ベース(類聚国史・続日本紀・日本後紀等)

まずは坂上田村麻呂ファミリーや職場関係をチェケラ

坂上 苅田麻呂
坂上ダディダディ。田村麻呂のパパ。
奈良時代末期(平安区分の直前)に藤原仲麻呂の乱鎮圧などで活躍。
陸奥鎮守府将軍として、政府に従わない荒くれ(蝦夷)がいる東北を統治。
子の田村麻呂が蝦夷征討の最高司令「征夷大将軍」となる流れを作った。
「征東の礎」みたいな礎系計略なんてどうだろうか。


文室 綿麻呂(ふんやのわたまろ)
田村麻呂の部下として彼とともに征東している。
薬子の変では田村麻呂から共闘のオファーを受けるほどの武勇がある。
後年、田村麻呂の跡を継いで征夷将軍を任されている。
徳丹城という拠点造営を建議したので、拠点計略が似合いそう。


坂上 鷹養(たかかい)
田村麻呂の弟。
征夷将軍となった文屋綿麻呂の補佐、征夷副将軍として活躍。
目覚め計略が似合いそうだ。
征夷副将軍の同僚として大伴今人佐伯耳麻呂がいる。


百済教雲佐伯社屋道嶋御楯
征夷大将軍田村麻呂の補佐官である征夷副将軍たち。
名前的に、教え計略・櫓か柵か拠点建築計略・防護計略だったりして。


坂上大野広野浄野
田村麻呂の息子たち。大野広野は早く亡くなる。
そのため浄野が東北経営など田村麻呂の跡を継いでいるようだ。
蝦夷たちとは友好的な関係を築いていたとか。共闘計略かな?


阿弖流為(アテルイ)磐具母體(いわぐのもれ)
田村麻呂に降伏した蝦夷のボスたち。
中央政府に恭順の意を示したが、両名は斬首となる。
しかし、その後蝦夷の暴動がないことから、
蝦夷一族の助命と引き換えに自らの首を差し出した武士の鑑の可能性がある。
田村麻呂に従った経緯から、の適正がありそうだが、
蝦夷アイヌ民族説を採るならアシㇼパホロホロが所属するかも。
※後述するが阿弖流為悪路王悪事の高丸大嶽丸説からの可能性もゼロではない。


大伴弟麻呂
初代征夷大将軍。
田村麻呂征夷副将軍のころの上司。
副官時代の田村麻呂の同僚として百済王俊哲多治比浜成巨勢野足も出せるかも。
※大伴氏は大伴継人vs藤原種継伴健岑伴善男vs藤原良房(承和の変・応天門の変)など藤原氏と因縁もあるためはちょうどいいかも。

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寺社縁起譚等ベース

田村麻呂は平安京守護や、東北出張などであちこちに顔を出すため
全国各地の寺社や温泉地などに縁の人物として名が残っている。

霞野忠太盛春
田村麻呂の家臣。
蝦夷との戦いで負傷した田村麻呂の傷を癒した宮城県の沢乙温泉を見つけた。
単体回復計略持ってきそう。


阿久玉姫
沢乙温泉の地元民。田村麻呂と惹かれあう。
田村麻呂沢乙女と呼ばれており、温泉の名前の由来となった。
全体が徐々に回復する計略持ってきそう。


延鎮(賢心)
田村麻呂が妻の三善高子の病気平癒のため鹿狩りをしていた時に偶然出会った僧侶。
田村麻呂がパトロンとなり、京都清水寺を開いた。


三善高子
田村麻呂の妻。彼とともに清水寺に御本尊の像を寄進している。

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続いて、田村麻呂の功績が民間に広まり、
伝説化した英雄譚に登場する関係者!

――を考察していこうと思ったのですが、
記事が長くなりすぎたので、

↓こちらに分割します!↓

武将考察の巻【その3-2:琥・平安(鈴鹿御前)考察】


ここまでお付き合いいただきありがとうございました!


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余談

愛姫の実家は田村家であり、彼女は末裔の可能性があるが、特に特殊セリフはないっぽい……?
もしくは後日追加される田村麻呂ファミリーの誰かと、特殊会話があるかも…??
作成日時:2025/04/13 17:51
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