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【異説】明智光秀に関する一考察

by
ゲイニキ
ゲイニキ
こんにちは、源義経の扱いに四苦八苦しているゲイニキです。
さすがは源氏の御曹司、、、我が道を行く戦闘スタイルは主君のぼくの言うことを聞いてくれませんいや貴様が下手なだけ

昨日は、あまりに義経で勝てず、昇格戦いよいよやばい、ってところで織田家臣団デッキを投入。
(参考:【デッキ】使用デッキ紹介②
明智光秀柴田勝家のコンビはやはり安定した試合運びをしてくれる。楽勝とは言えないものの、土壇場できちんと押さえてくるあたりさすがの名将たちですいやいや貴様が慣れているだけ

これでぼくもやっと三十万石に昇格!!!!
まだまだ道は長い。。。デッキ研究をがんばろう。


さて今回は、そんな明智光秀に関する異説都市伝説を紹介したいと思います。歴史好きなら必ず一度は通る、異説という道。ぼくは一度と言わず往復した上に、道に迷っていますどういうこと
あくまで都市伝説のため、信憑性に欠ける部分もございます。単なるウワサ話ゴシップ記事だと思って、適当に気楽にお読みいただければよいかと思います。かなり長くなっちゃったので、興味のある箇所を中心に読んでいただけたら嬉しいです!
記事についての歴史学的な反論や無闇な批判はお控えください
それでは紹介していきましょー!


まず今回の結論は、コレだ。
明智光秀は南光坊天海だった。

これはいつ頃から唱えられている異説かは不明ですが、今でも根強く語られています。織田家随一の名将 明智光秀と、徳川家康のブレーン黒衣の宰相 南光坊天海が同一人物とは果たしてありえるものか。

歴史上の都市伝説とは生存説がほとんどを占めます。
他にもさまざまな人物の生存説がささやかれているので、今後も紹介していければと思います!
今回は「明智光秀生存説」から派生し、のちに「南光坊天海同一人物説」に発展したものと考えられます。
まずは、「明智光秀生存説」から見ていきましょう。


明智光秀生存説
通説では、明智光秀本能寺の変織田信長を滅ぼした後、各国諸将に協力を呼びかけるも良い返事が得られず、「中国大返し」で神がかり的速さで京に戻った羽柴秀吉に「山崎の戦い」で敗戦、落ち延びる最中に京の「小栗栖」で落武者狩りに遭い自刃したと伝えられています。
ですが、明智光秀生存の痕跡はかなり残っています。

そもそも秀吉が挙げた首は、本当に光秀のものか?
光秀の首の行方は、定説がなくはっきりしていません。光秀が自刃し介錯された後、羽柴秀吉が首を回収し京に晒し首にしたとも言われます。
しかし、「落武者狩りに討たれる」という実に曖昧な最期。
誰が光秀の首を挙げ、どのように秀吉に渡ったかは不明なところです
光秀の首は介錯の後、一旦地中に埋められたとも言いますから、秀吉に渡った首が果たして本当に光秀の首だったかはわかりません。
また本能寺の変山崎の戦いの時期は、季節は真夏6月のことでした。小栗栖からすぐに秀吉の元に渡ったわけではない"誰かの"首は、腐敗が進んでそれが誰のものかは全くわからなくなっていたことでしょう。
とすると、光秀小栗栖で死んだ、ということ自体怪しくなってきます

比叡山の石灯篭に残る「光秀」の名
滋賀県比叡山には、1615年に「光秀」の名で寄進されたという石灯篭があります。もちろんこの「光秀」が明智光秀と同一人物かは定かではありません。また、明智光秀は一般的に1528年の生まれと言われており、小栗栖で討たれたときにはすでに55歳1582年)。大坂夏の陣の年である1615年は、さらに33年後となります。年齢的には非常に厳しいところですが、とても興味深いですね。

慈眼寺に残る明智光秀の位牌
明智光秀は織田家臣として活躍していたとき、主に丹波国を中心に治めていました。今でいう京都府の北西部ですね。善政を敷き、民衆にも慕われていたそうな。光秀が築城したといわれる周山城や、光秀とゆかりの深い慈眼寺があります。
慈眼寺の釈迦堂には、光秀を模した黒塗りの木像や光秀の位牌が残されています。
ちなみに、黒衣の宰相 南光坊天海の諡号は
慈眼大師
ん?
ってなったところで、いよいよ明智光秀=南光坊天海説を見ていきます。


明智光秀=南光坊天海説
さて、今回の本題に入ります。
明智光秀山崎の戦いの後も生存し、徳川家康のブレーン南光坊天海に生まれ変わったと言われる理由を紹介していきます。

生年が近い。天海の前半生が不明。
先ほども触れましたが、明智光秀は一般的に1528年の生まれといわれていますが、1510年代から遅くは1540年代の生まれとする書物もあり、確定はしていません。
また南光坊天海の生年は、これもかなり曖昧で、歴史書によって大きく前後します。一応1536年かとされていますが、光秀同様、1510年代から1550年代まで大きく前後します
つまり、いずれも生年が確定していないんですね。また生年が前後する幅はおおよそ一致し、同年代でありそうなことは言えるでしょう。

また天海前半生は、よくわかっていません足利将軍のご落胤とする説もあります。
歴史の表舞台に登場するのは、1590年北条攻めの時期。突然、徳川家康の知恵袋として家康の横に居座ります。その後も内政・軍事・調停などの面で家康をサポートします。
家康天海初対面した際には、わざわざ人払いをし、あたかも旧友のような雰囲気で会話をしたそうな。
ここで謎なのは、前半生が謎の、どこの馬の骨とも知れない天海を、あの慎重な家康が快く迎え入れて重用したのか
つまり、前半生を明智光秀、後半生を南光坊天海として戦国の世を生き、天海として徳川家康に士官したとしても辻褄が合うわけです。
ここで少し別の論点に移ります。

本能寺の変」の黒幕?
これは今でもさまざまな説があり、日本史最大のミステリーともいわれますが、ここでは徳川家康黒幕説を見ていきます。
本能寺の変当時、徳川家康大坂堺に物見遊山で滞在していました。当然、変が発生した本能寺は目と鼻の先光秀からしたら、織田信長の同盟者で脅威である家康を討つ絶好のチャンスです。
にも関わらず、光秀家康を逃し家康はかの有名な「伊賀越え」を経て三河国に逃げ戻っています。
また、光秀隊所属の兵は本能寺に進軍中、「家康公を討つかと思った」と残しています。これは信長光秀の間で、家康討伐の企みなどがあったとも考えられ、光秀はそれを未然に阻止し、むしろ返り討ちにしたともいえるのではないでしょうか。いずれにせよ光秀家康の間で関わりがあったことは間違いなさそうです。
仮に光秀家康の間で何かしらの同盟・密約等があったとすれば、山崎の戦いで敗れた光秀を庇護し、自身の参謀として再度迎え入れたとしてもおかしくはありません。

真実の鍵を握る春日局
ここで急に、3代将軍徳川家光の乳母春日局の登場です。なんでこいつは下方修正されなかったんだよ!!!
春日局大奥の創設者でもあり、当時絶大な権力を握りました公募で選ばれた一介の乳母がなぜ?
ここに明智光秀=南光坊天海説の鍵が隠されています。
春日局の父親は斎藤利三といい、光秀の重臣として活躍しました。もちろん斎藤利三光秀同様、主君織田信長に刃を向けた逆賊として認識されています。通常であれば、逆賊の血統である春日局が乳母に採用され、権勢を誇ることなどあり得ない話
ここに父親の主君明智光秀(=南光坊天海)の見えざる手の影響があると考えられるのです。
また、春日局南光坊天海が初対面した際に、春日局
ご無沙汰しておりますと挨拶しているそう。
家康春日局も初対面なのになぜ? 

また、春日局には他にも異説があり(詳細は別で投稿しようかしら)、徳川家光の母は春日局だとする説もあります。またもっとトンデモ説では、徳川家康春日局の子が徳川家光だとする説もあります。
たしかに逆賊の汚名を着せられた一族の娘が、大奥を創設し絶大な権力を持ち、さらには将軍の母親にまで登り詰めたとなれば、なにか別の権力の存在を感じさせられますね。
だってほら、家光って名前は、徳川家の通り名「」と明智家の通り名「」でできてるでしょ?

各地に残る光秀の痕跡
ここからは一気に紹介していきます!
日本各地に光秀=天海の痕跡は隠されているのです。
徳川家の守護神日光東照宮には、徳川家の家紋「葵御紋三つ葉葵)だけでなく、明智家の家紋「桔梗紋」が見られるちなみに、日光東照宮造営は天海が主導
・日光中禅寺湖近くの展望スポット明智平」は、南光坊天海が命名したと伝わる。
👇いろは坂上り途中に明智平ロープウェイがあり、スルーしがちですが、ロープウェイに乗って山頂に行く価値はめちゃあります!! 手前が華厳の滝、奥が中禅寺湖です。去年の夏に行きました。

・TV番組で光秀天海の筆跡鑑定を実施。本人か、非常に近しい人物との判定。※別番組では否定されています。
・4代将軍徳川家綱の乳母は、明智光秀の家臣三沢秀次溝尾茂朝とも)の娘。春日局の推挙により乳母に就任。ちなみに家綱の「」の字は、光秀の父「明智光綱」由来か?



いかがだったでしょうか!!
大変長文になってしまいスミマセン。。。
書いてるうちに熱くなってしまいました🔥

ちなみに他の作品でもこの説を採用したものもありますね!
戦国大戦では、群雄伝において明智光秀=南光坊天海説を採用していました!
戦国無双」では関ヶ原の戦い明智光秀が参戦したり徳川家康の与力での参戦)、「戦国BASARA」では光秀と全く同じ顔の天海が登場したり。
ぼくは戦国無双派です
2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」では最終回に、長谷川博己さん演じる光秀が馬に乗って駆けていくというラストが印象的でした。

もちろん歴史学上は歴史書に明記がないため否定されている説で、声高にこの説を述べたら鼻で笑われるかもしれません。
異説を一蹴するのは簡単です。しかし、歴史とは「勝者の歴史です。羽柴秀吉に敗れた明智光秀は生存していたとしても、秀吉にその痕跡を握りつぶされたのかもしれません。
また、光秀天海の共通点がさまざま見つかる中で、逆に確実に別人という証明も難しいのではないでしょうか。
他にも、光秀の重臣明智秀満天海になったという説もありますね。

歴史とは「正確にはわからない」からこそ面白いのです。
あーでもないこーでもない、ああだったらいいのに、こうだったら面白い、と妄想考えが広がるのがロマンです。
今は定説でも新しい発見があれば歴史って簡単に変わりますしね。そもそも正しい歴史など存在しない
その延長線上にあるのが、古今東西の英雄が集結する英傑大戦というゲームなんだと、ぼくは思ってます!!
(あーよかった、話が着地したァ)

読者の皆さんが面白いと思ってくださったら、また別の異説も紹介しようかな。


てなわけで、もっと強くなりたい、歴史に詳しくなりたいゲイニキは、チームメンバー大募集中です!!
初心者歓迎というより、我こそは初心者という方に入っていただきたい!! 女性主君も大歓迎です!
大戦は週にちょっとだけ、歴史大好きです!って方もぜひぜひ。
特に加入後のノルマもないですし、成績なども一切気にしません。東京や埼玉でプレイしていることが多いですが、その他エリアの方ももちろんOKです!
一緒に強くなって、一緒に英傑大戦を楽しみましょう〜!

チームの詳細は👇から! ご連絡お待ちしております!
※荒らしやメンバーに迷惑がかかる行為が見られる場合は、強制脱退とさせていただきます。

【男塾 入塾要綱】
チーム名  :男塾
メンバー募集:募集中!
チーム目標 :のんびり大戦!
パスワード :sakigake

↑現在、パスワードなしでも加入可能です!

現場からは以上です。

 
更新日時:2024/01/19 00:13
(作成日時:2024/01/18 20:10)
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