萩藩だ!長州藩だ!!山口は最高だ!!皆山口に行こう!!
さて、今回は前回の続きの山口編です!
此方の方も長くなってしまうため、二つに分けようと思っていますので、今日は山口・壱となります!
前回は赤禰さんの処刑地で〆ましたが、今回は桂小五郎をお祀りしている神社から始めましょう!
桂さんの事は桂さんで統一して呼びますね!これ英傑大戦の記事なのでっ。
『木戸神社』
ここは赤禰さんの処刑地からほぼまっすぐ北西に行ったところにあります。
この神社の近くには木戸孝允旧邸跡があり、京都で亡くなる前に桂さんはこの山口の木戸家の旧宅と田畑と山林を地元に寄付して、子弟の学資に充てることを遺言として残しました。これを感謝した地元の人々により、邸宅近くのこの場所に木戸神社が創建されました。
『木戸公恩徳碑』
境内にはこのことを記した碑が建てられています。神社の本殿前にはこの碑に書かれた文章を文書化した紙が置いてあります。
『木戸孝允旧邸跡』
今はこの背面にある家は個人邸なので私達が見れるのはこの碑だけなのですが、山の麓のなかなか静かなところに住んでいたみたいで良いですね!出勤先の山口政事堂(山口城)も程よい距離感です。
木戸神社を出て山口バイパス沿いに自転車を走らせます。
ずっと走っていくと左手の少し上がった場所に普門寺が見えます。
『普門寺』
ここは長州藩が政治拠点を山口に移してから、藩命により江戸から帰国した大村益次郎が此処にある観音堂で兵学の指南をしています。
『普門寺観音堂』
大村はこの観音堂で寄宿していました。見た目小さいけど中が気になるな……広いのかな……?
この普門寺からどう動こうかなーと思ったのですが、来た道を下ろうとしたらバイパスの下をくぐるトンネルがあるのを発見。
信号まで大回りしなくていい!!ということで、このトンネルを通り水路に突き当たるとこまで下って右手へ向かいます。
左手に行けば山口博物館なのですが、先に右手にある山田くんの旧宅跡の碑を見に行きます。
『山田顕義先生旧宅跡』
坂下ったのにちょっと坂登らされたんだけど!?運動不足で腿が上がらないので坂は得意じゃないのです……!というかこの周辺は坂道なので全体的に辛いです……。
山田顕義は現在の日本大学の創始者ということもあり、山田くん関連の場所には大抵日本大学の名が書かれています。
碑を建てる為の出資ももしかしたら日本大学がしているのかな……?わざわざ先生と彫ってあるし、字も日本大学の総長さんの字だそうで。
この旧宅跡から少し下ったところにはこの白石地区周辺の道路を改修した折に山田が出資した旨を記してある碑があります。
この周辺には山口に藩政を移動した後に高杉の父親である小忠太が住んだ屋敷もありました。
もと来た道を戻りそのまま山口博物館方面に向かいます。
博物館の近くには山口市歴史民俗資料館があり、この周辺の歴史を知りたい場合はこちらも行くと良いかと思います。
先ほど私が下ったトンネルを使わずにそのまま山口バイパスを真っ直ぐ博物館方面に向かえばあります。
今回訪れた時期には山口の吉敷に拠点を置いていた吉敷毛利家(毛利家の一門の一つ)の展示だった為、喜び勇んで行ったんですが外観写真撮ってないね。
なんなら山口博物館も撮ってないや。
山口博物館の方は自然の方を重点に置いている為、動物のはく製とか恐竜の骨格標本とかが置いてあります。
江戸幕末に関しては桂くん、周布さん、久坂くんの紹介スペースがあり、デジタルで松下村塾を知ることが出来る展示もあります。
此処には湯田温泉回でお話した、【フグ型徳利を持ってニコニコしている周布さんの写真】で登場しているフグ型徳利が展示してあります。
写真の顔は良く見るのですが、まさかその写真が酒を飲んでいる最中だったとは初めて知りました。
山口博物館の横の山の上には毛利敬親公の像があります。
元々この場所には6人の人の像が立っていましたが、戦争の折に全ての像が兵器の材料として使われた為もうここには明治期に建てられた像がありません。
今此処にある敬親様の像は、昭和になってから再度建てられたものです。
戦時中は日本の至るところで色々なものが兵器材料として潰されていました。二度とその様な事にならないように……心底そう思います。
山を下りると山口サビエル記念聖堂があります。この近くには来島又兵衛の碑と周布政之助の碑があります。
なんでこんなところに……と思いますが……。
『来島又兵衛の碑』
『周布政之助の碑』
どっちかわかんなくなるのでカードを添えました。なんて書いてあるのかは全然わからないです!!すみません!
で此処からどこに向かうべきか……と考えつつ、取り敢えず旧山口藩庁門(山口城表門)に向かいました。
まだ行くところが山ほどあるのですが!!
『旧山口藩庁門(山口城表門)』
毛利敬親公が萩から山口に藩庁を山口に移した折に建てられた山口政事堂への門です。
山口政事堂は1864年に竣工されましたが、禁門の変からの第一次長州征討における幕府への恭順条件として一旦破却されました。
その後の1866年に再建されて第二次長州征討(四境戦争)の折にはここが長州軍の軍事拠点となっています。
湯田温泉回で書いた袖解橋の変の切っ掛けとなった、井上馨が幕府に抵抗すべきだと説いた会議はこの山口政事堂で開かれていました。
ここまで来たら瑠璃光寺に行くべきですね。
瑠璃光寺には国宝である五重塔があります。
『瑠璃光寺五重塔』
とても綺麗な素晴らしい塔なので是非見て欲しい!と思うのですが、今現在この五重塔は令和の大改修の最中で何も見えません……。
カナシイ!!!結構長い期間の改修なのですが瑠璃光寺の境内も綺麗なので機会があったら是非……。
『瑠璃光寺境内』
瑠璃光寺の横にある香山公園には萩藩主毛利家墓所があり敬親公の墓所があります。
『うぐいす張りの石畳』
墓所の前の石畳はうぐいす張りの石畳と呼ばれており、ある場所で音を立てるとその音が反響して聞こえてきます。
人為的ではない自然産物との事で、なかなか面白い環境なので行った際には是非その音を聞いて欲しいと思います。
うぐいす張りの石畳の傍らには明治天皇から命じられ建てられた敬親公の偉業を語り継ぐための勅撰銅碑があります。
『勅撰銅碑』
天皇が直々に碑を立てなさいって言うのは凄いですね!そんなことあるんだ……。
この香山公園内には枕流亭と露山堂という建物が建っており、そちらも紹介したいのですが今回は一旦ここで記事を切ろうと思います。
一緒の香山公園内にあるのだから一緒にした方が良いのですが、そこを書くとその後また二か所ほどの紹介が必要なため、記事自体が長くなってしまうため今回はご容赦ください。
ただでさえ長いのに、これ以上長いと読む気失せちゃいますもんね。
私の目的は大戦カードで興味を持った人に楽しく史跡を回って貰うことなので!!カードと一緒に史跡を回るのはとっても楽しい!!
と言うことで次回の山口・弐でお会いしましょう!!おやすみなさい!