1.はじめに
皆さんは攘夷の意味って分かりますか?
そりゃあなんとなくは分かりますが、私は詳しく聞かれたら歴史の授業がハチャメチャ苦手だったので全然わかりません。
幕末は全て銀魂で履修しました、この記憶改ざんを修正するためにもおさらいしたいと思います。
楽しく学びましょう攘夷(Joy)だけに(笑)
2.攘夷のまめちしき
まずそもそも「攘夷」という言葉についてですが
「攘」=うちはらう
「夷」=夷狄、蝦夷などに使われる語
で構成される語です、後者が分かりづらいですね。征夷大将軍にも「夷」の文字が使用されています。
常用漢字ではないですよね、まず使いません。
元々の使用法を辿ると中国に「四夷」の概念があり、これは中原以外の地方に住む民を指す言葉です。
それぞれ東西南北に用意されており「東夷」、「西戎」、「北狄」、「南蛮」です。
「南蛮」!南蛮は馴染みがありますね。東北当たりの人とかはどっちで呼ばれるんだろうとかちょっと気になりますがまぁいいでしょう
そしてよく見ると字が物騒ですが、日本では他国を表すときにも南蛮かぶれなんて…今は言いませんが使いますね。
戦国時代の漫画などではよく出る表現です。
チキン南蛮では馴染みがありますから、ビーフ西戎とかポーク北狄とかそんな料理を作れば覚えられるかもしれません。ポークポクテキなんて語呂良いじゃん
将軍の名前を決める際、前に当たる部分は京から向かって西、九州の方に向かえば征西(鎮西)大将軍、東に向かえば征東大将軍なんて名前がつきます。
更に北に向かうときに、坂上田村麻呂に征夷大将軍の名前が与えられました。蝦夷の討伐という目的なのでこの名前です。どうしても「えみし」って読んじゃいますけど、これで「エゾ」って読むんですね。蝦夷鹿強そう
あれ?徳川家も、なんなら信長とかも征夷大将軍じゃなかったっけ?という疑問がわきますが、足利幕府が代々征夷大将軍を継承していくようにしていたので、分かりやすく新政権、新幕府でも使うのに都合がよかったのだと思います。急に新しい将軍の名前がスーパー隠大将軍とかになっても困るし
でも足利幕府が使うにしても変ですよね、別に蝦夷を討伐に行くわけではありません。
そこでちょっと遡るとこの名前、源頼朝が使っていますが選ばれた理由は「大将軍」にはなりたいけど「征東大将軍」だと木曾義仲の例があるからちょっと…みたいな感じらしいです。それでいいのかネーミング
やっぱり男の子として産まれたからには一生に一度夢見る「大将軍」ってことですかね、ココココココ
3.攘夷に至る経緯
『連綿と続く跡目争い』編
まず主軸として徳川将軍家について掘り下げていきます。何故徳川将軍家かというと、あんまり分かんないじゃないですか。将軍家
みんなやれ新選組だ、海援隊だ、松下村塾だっていうのは好きになって調べたりするんですけど、将軍家はあんまり興味ないですよね。
それでも歴史の主軸には将軍家があります。一度将軍として武家の棟梁になってしまうと神輿に担ぎあげられすぎて屋根をつき破ってしまうので、中々個々人としては掘り下げて貰えません。
覚えられているといっても特徴のある人ばかりで、犬公方として挙げられた「綱吉」、最後の将軍「慶喜」、そしてパ○△×□▽CR「吉宗」。
えっ無礼討ち?そんなぁ……
ちなみに近年徳川綱吉の評価は改められており、悪法として言われていた「生類憐みの令」も、ただ犬を殺したら死刑!みたいな制度ではなく、子捨て、姥捨てや、犬の試し切りなどを防いだりする「生類憐みの令」の字のごとく太平の世に博愛をもたらす政策だったとの評価になってきています。
結果として犬小屋とかにめちゃくちゃお金かけてたら財政が同じ時期に怪しくなり始めたので、何だかアホみたいな扱いになりました。歴史上の人は一度恨まれると大変ですね。
10年前に勉強したり、漫画で読んだらこうだった、なんてことはありますが歴史の世界も日進月歩で変わっていくようです。
馬上戦とかも無かったって言われたりあったって言われたりで掌ドリルになっちゃう
そんな…同じような名前でおぼえにくいとか、特徴がないとか、ポケモンは151匹覚えられるのに15人しかいないのに覚えられないとか言われる将軍家、ショーグン言えるかな?が出ても覚えられる自信ありません。
しかし人間……いえゲーマーというのはすごいもので、カードにされてしまえば簡単に覚えられます!
25/8/8、20/6/8、20/7/10、25/8/7,15/4/7…すべてありありと思い出せますね!
家光以降?カードになってないでしょうが!
面白いもので家康の祖父の名前すら言えます。清康ですね。家清コンビとして一世を風靡したデッキに採用されていました。
父親の名前?使われてなかったでしょうが!
では気を取り直して幕末に関係ある将軍の紹介を……と言いたいところですが、それだといささか分かりづらいので少し遡って説明をします。
十二代将軍といえば、そう!家慶ですね。誰だよ
家慶はなんと十四男十三女(!)を設けましたが、息子の家定一人を除いて全て早逝、そしてその家定も病弱という有様でした。
徳川将軍は少なくない割合で病気を患う人がいます。単一の家系を軸にする長期政権というのは難しいですね、そもそも近代医療が確立される前なので仕方がないのかもしれません。仁がペニシリンを持ってきても…残念ながら将軍家の人の治療は難しい場合が多いです。
有名な将軍は15年ほどは在位していますが、何人かは3年ほどの在位で亡くなってしまい後継問題に悩まされます。
若くして将軍になるストレスとかもあるのかもしれませんね。
思春期に将軍家を背負うというのは碇シンジくんと同じかそれ以上のストレスでしょう。異世界転生ものもビックリの急な政権任されっぷりです。
家慶はそんな家定の病弱さ・器量を見て心配し、一橋慶喜…つまり徳川慶喜を後継に考えていたほどでしたが、老中阿部正弘らの反対により家定は次代の将軍になります。
ですが運悪くというべきか、代替わりのタイミングはなんと黒船来航の19日後!
その後再来日したペリーと日米和親条約を結ぶと体調は急激に悪化していき、子がないまま4年後には後継者問題に悩まされることになります。
そこで後継者に選ばれたのは新しい老中の井伊直弼ら擁する「家茂」と、あの西郷隆盛を見出した島津の名君である島津斉彬や徳川斉昭ら擁する「一橋慶喜」!
もうお判りでしょう、次の将軍は慶喜……にはなりません。家茂です。
色々理由はあるとされますが、もちろん老中としての井伊直弼の力もあるでしょう、家定が慶喜の顔の良さを恨んだともいわれます、家定が父親に跡目を外されかけた恨みもあるでしょう…
朝廷側からも次の将軍は年長で冴えてる人がいいな~という、それとなく慶喜にしてほしいという働きかけもありましたが、それを押し切って選ばれたのは弱冠13歳の家茂になります。このとき慶喜は22歳ですかね。
この年齢を見ると将軍って決定権があるだけの人で、飾りというかフィールド魔法というかオブジェクトというか、どうしても権力争いを巡る神輿に見えてしまいます。
まぁでも家系図見てみると妥当な気もするんです。慶喜は血縁を遡ると、徳川直系の血が出てくるのは松平信康と徳姫の娘、熊姫や、徳川秀忠とお江の娘、千姫まで戻ります、結構遠い親戚ですね。
順当に近い親戚で言えば井伊直弼らの選んだ家茂が妥当です。
(ほぼ戦国時代)
『幕府のゴタゴタ』編
そしてこのゴタゴタの最中、あの「日米修好通商条約」が締結されます。
……もうこうなっちゃうとあれですね?しょうがないと思いませんか?
身内でバチバチの権力闘争している中、金髪のおっさんがちょっと港入っていいすか?自分軍艦持ってますけど?って言ってきたら、そっちに完璧な対応してる暇はないですよね。
井伊直弼のイメージとしては違うかもしれませんが、老中着任の直後にはもう海防策を検討し始める対外国についてしっかりした人です。
そもそも本条約は家定と老中堀田正睦がタウンゼント・ハリスと交渉していたものを引き継いだもので、こんなタイミングで武力をチラつかせながら脅されると、全てを円滑に処理するのは難しいでしょう。
ですがこの調印、大きく諸侯らの機嫌を損ねたと言えるのは、朝廷の勅許を得ずに幕府が勝手に条約に調印したことでした。
まぁ色々分かるけどそれだけはやっちゃダメだろ、という一線を越えたわけですね。
これまたイメージと違うかもしれませんが、無勅許は流石にやり過ぎたから大老やめよカナ…という病み感を出していきます。ですが、そんなことすると慶喜派が有利になるだけだぞ!と諫められ思いとどまりました。
そもそも井伊直弼は勅許してもらえるまで粘って無理だったら押すしかない…と考えていました、しかし攘夷派の公家は勅許に反対するし、イギリスが来る前に調印したいアメリカが急かしてくるし……最終的には○△×□▽戦争が終わった後のイギリスがもう来て占領されるぞ!という脅しに半ば屈する形での無勅許調印となりました。
これに慶喜派の斉昭らも、無勅許許せない!ついでに慶喜を将軍にしてほしいし老中もこっちで決めたい!と言い出します。慶喜派きたない
ですが将軍の大勢は決していたので大老パワーで斉昭、慶喜たちを謹慎処分にします。なんか流れがコントみたい
ここに端を発した家茂将軍跡継ぎ問題に関する一橋派、日米修好通商条約に関する尊王攘夷派に対する弾圧を「安政の大獄」と言います。
うぉぉぉぉおおおぉぉ!パワーワード!やっと少し「安政の大獄」を理解できた気がしませんか?
対象者はたくさんいますがカード化されている中では吉田松陰、そして山内容堂もここで謹慎されています。ほぇー
他にも処罰を受けたのは西郷隆盛が助けた「月照上人」や公家の人など、武家に留まらずものすごい数です。
これはもしかすると恨まれて殺されちゃうんじゃないか?(盛大な前振り)
その一方で島津斉彬は無勅許調印に対するカウンターとして兵を率いて上洛、違勅を正し一橋派復権!幕府との対立姿勢を作っていく途中、水当たりで死にました。
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
いや…そんな…無敵の雄藩薩摩の英主島津斉彬が…
このショックは非常に大きく、西郷どんもションボリ、もう一緒に死んじゃおうカナ…とこっちも病み感を出してきます。
上手く比肩できませんがこれは孫堅が単独行動してたら伏兵に当たって死んでしまうくらいの番狂わせです。
お由良騒動という女性問題に揺れた薩摩藩を幕府の介入により解決し、聡明で知られた斉彬が幕府中枢に出てきてから、そう間もない頃と言えます。
まぁ皆はタイムスリップしたら水を煮沸して飲もうね
調べれば調べるだけ井伊直弼、もとい当時の幕府の双肩に乗っかってるものが大きすぎて可哀想にもなってきます。
そもそも「日米修好通商条約」より先に「鎖国」したことについては朝廷は関係しておらず、キリスト教の脅威を防ぐために幕府が始めたものでした。
それを始める時はいいとして、やめるのは朝廷の許可がいるというのも少しおかしな話に聞こえますね。
とはいえあくまで幕府は朝廷から大政を委任されているだけの立場なので、なぁなぁで仕事やってたら100年ぶりに親会社が口出ししてきたみたいな感じですね、スケールがデカすぎるコンプラ案件。
井伊直弼をこれ以上掘り下げるわけにもいかないのですが、丁度良く「桜田門外の変」で退場。
これもパワーワード、噛み砕いてみたら授業でやった時よりはやられてしまうのも妥当に感じました。どうでしょう?
『攘夷できるかな?』編
そして、この通商の断絶、鎖国の再開を求め、外国勢力を排除していこうとする動きが…
幕末期の「攘夷」のメインムーヴメントというわけですね!
もう少し前から概念として存在はしていたのですが、分かりやすくイメージするのはやはり通商条約以降ではないでしょうか。
「桜田門外の変」以後、幕府は朝廷との関係回復(公武合体)を目指して、孝明天皇の妹君を家茂の正室に迎えます。
そしてその引き換えに日米修好通商条約の破棄を約束しました。なんか代償がデカくない?元通り+仲良くなれるから良いのかな?
期限はざっくり10年としましたが、裏の狙いとしては攘夷が実際には難しいことを朝廷側に理解してもらって、最終的に開国に方針を転じてもらう目論見でした。
ですがここで朝廷の方針を握るべく、長州藩と薩摩藩が喧嘩をし始めます。
この時期長州の藩論として長井雅楽が提唱、実質開国論である航海遠略策で朝廷との幕府の仲をとりもとうとしていて、幕府はそれを歓迎するムード。(雅楽ちゃんヤッター!!)
ですが朝廷に入説した結果これが不評(雅楽ちゃんヤダー!!)
もう一方島津斉彬から二転三転して薩摩藩のあとを継いだのが、これも名君となる島津久光。
兵を引き連れて上京した結果、これを見て攘夷・倒幕・王政復古の気運が市中に高まります。
なんかハチャメチャ物騒な巫女巫女ナースみたいなフレーズですね。
久光としては一橋派の復権、幕府の改革、雄藩の国政参加を主とした、開国・公武合体を考えていました。
ですが色々な人が勘違いした結果、倒幕ワクワクフレンズ達が京都に集まってきてしまいました。
その流れに乗って久坂玄瑞も長井雅楽の開国論をボロクソに言い始めます。久坂コノヤロウ
結果として長州の藩論は攘夷に転換しましたが、一方で薩摩の目標は倒幕ではなくあくまで公武合体
尊王攘夷派の期待を一身に背負った上洛でしたが、久光はそれを意に介さず朝廷から過激な志士らの処分の命を受け、キッチリ統制が取れている所を見せつけます。
これを「寺田屋騒動」と言います。
寺田屋と聞くと自分は龍馬襲撃事件があった場所のイメージでした。
この寺田屋というのは薩摩藩の懇意の場所で、坂本龍馬は襲撃時に薩長同盟の立役者として薩摩側についていたため、この寺田屋に泊まっていました。
…という事件とは別の事件です。
悪いんだけど事件はちゃんと別々の場所で起こしてくれないかなぁ!覚え辛いんだよね
この処分実行を足掛かりにして久光は、安政の大獄により処分を受けていた人たちの赦免を朝廷に働きかけます。
働きかけますが、幕府側はそれを察知して慶喜、山内容堂、また松平春嶽らを赦免します。
よく考えたら一橋派って割と開国派じゃん!と思って朝廷に開国軟化をお願いしてもらおうと思ったわけですね。
赦免した松平春嶽からは、将軍の上洛を条件に開国入説することを承認してもらいます。
その後赦免された慶喜は将軍後見職に、山内容堂は幕政参加、色々頑張った薩摩は朝廷にも幕府にも認められて…久光君スーパー大勝利!
その帰りに無礼なエゲレス人をぶった斬ります。これが世に言う「生麦事件」。あのさぁ…
これは攘夷行動により起きた事件ではありませんでした。
大名行列の帰り際、通るから下馬して端に寄れと言われたイギリス人があまり意味を分からないままわちゃわちゃし始めたので、久光家臣としては流石に無礼討ちしなくてはいけない状況が発生、結果として斬ることになりました。
ついでに何人か逃げられちゃったのもマズかったですね、全員斬っちゃえばなぁ(蛮族)
ただ久光を狙ったテロ行為だったら大問題だし…ねぇ?
薩摩が力を付けた結果、焦ったのが長州藩
反動で尊王攘夷にオールイン、攘夷に10年とか待ってられねぇっすよ!朝廷さん!と急に過激派になります。
なんだか先生の遺志を感じますね、
またこの頃に土佐勤王党を率いる武市半平太も入京、幕政に参加した山内容堂をしり目に「天誅」の名の元、岡田以蔵らが京を荒らします。
ここに来て急激に攘夷の気運は高まり、京都はもう攘夷の天下一武道会です。
もう幕府の権威はめちゃくちゃだよ。
高まる気運に押されて公武合体を推していた薩摩派の公家「岩倉具視」が辞任させられ、朝廷の権力争いも攘夷派が巻き返します。
これにより朝廷はもう攘夷急進一色となり10年攘夷の計画がもう今日明日にも攘夷!といったムードの中、将軍の上洛を待つことになります。
『上洛と攘夷』編
上洛の際に困ったのは将軍警護、何せ京都に向かうにも京都ではスーパーヒーロー達がドッカンバトルしています。
なので上洛の先鋒として、清河八郎率いる「浪士組」が先発することになります。
つまりこの「浪士組」というのが…
正義のスーパーヒーロー「壬生浪士組」の前身というわけですね!遂に英傑大戦が始まった感じ
(正義の微笑みを見せる芹沢鴨)
しかし清河が壬生の新徳寺に着いた夜に浪士組に明かしたのは、自分の目的は将軍警護ではなく尊王攘夷のメンバーを集めることだった…ということでした。
それもそのはず、清河は実は倒幕を狙う尊王攘夷の首魁だったのだ!そんなやつばっかだな
話を聞いた浪士隊は、まぁそりゃあそうだろうという話ですが、江戸に帰る浪士と京都で将軍を守る浪士に分かれてしまいます。
なんかせめて攘夷したそうな人に声をかけなよ
ここでいう京都で将軍を守ると言ったのが試衛館組(近藤・土方など)と水戸組(芹沢・新見など)ですね。
そして江戸に帰った清河らは江戸で刺客の手にかかり死亡、残った隊の人員は持て余す形になり
その後「新徴組」として組織再編されます。
「新徴組」~??知ってた??
沖田くんの義兄「沖田林太郎」や女性剣士「中沢琴」などがいます。
急に知らない人がいっぱい出てきてしまった…
目立った活躍や印象は薄いかもしれませんが、江戸の市中巡回を行う「御見廻り役」として市街を歩いたため治安がよくなっていったそうです。
そんな彼らはおまわりさんという愛称でも呼ばれますが、そこからは馴染みのある名前ですね。
酒の席でどや顔で話す知識シリーズだ、後輩には嫌われないようにね
閑話休題
将軍が遂に上洛、この時の将軍上洛は229年ぶりだっていうからスケールがデカいね
そして将軍後見職である慶喜が参内します。ここらへんはよく分からないですね、なんか将軍が行くんだと思っていましたが慶喜が参内しているようです。
まぁ13歳だしなぁ、去年まではランドセル背負ってたわけだし、そういうものなんでしょう。急にエヴァに乗れとか言われたら大変だしね。
そこで朝廷から攘夷についての勅諚を受けますが…粘りに粘って「これまで通り、幕府に攘夷の実行を求める」
つまり攘夷は求めるけど、内容を決めるのは幕府の裁量による、という形で受け取ります。
まぁやっては欲しいけど?今まで通り幕府に任せます、みたいな?日本的なニュアンス
これには慶喜もガッツポーズ
しかし攘夷の約束は「将軍が江戸に帰ってから20日後」と決めていたものの、朝廷が将軍をなかなか帰してはくれません。
京都ではイギリス艦隊が大阪湾に来る!という噂が立っていたからです。いや、中学生いても来ちゃったらキツいと思うよ
その上、毛利敬親から勅命により攘夷期日を交付するよう奏請され、京に将軍が人質状態のまま期限を決めるまで帰れま10が発生。
悩んで幕府は2週間後の攘夷と各藩への布告を決定します。そうせいそうせいって感じじゃないね
ここでいう攘夷とは通商条約の破棄、及び外国船に対する各港の鎖港のことですが、まだこの時昨年の生麦事件の賠償が終わっていません、薩摩ァ!
無理矢理武力で攘夷するには敵が強すぎますし、ダメージも大きいので、幕府の方針としては武力による解決は避けて交渉により鎖港を進める形で勧めていくことにします。
まず横浜湾についてはイギリスに生麦事件の賠償金を払って鎖交することになりました、文明的交渉だ。長州はアメリカ商船に砲撃を開始しました。長州ゥ!
さらに長州藩は続けてフランス艦、オランダ艦にも攻撃、攘夷強硬派の他藩も続く…と思いきや、山内容堂が帰った土佐藩では土佐勤王党の解体が始まっていました。長州藩の一人全面戦争が始まってしまいます……
『こっからが本当の幕末』編
そんなこんなで攘夷の火蓋は切られていきます。
長州・薩摩と他国間の争いが発生し、藩同士の権力争い、攘夷派の活動は京を中心に加熱していきます。また新選組の活躍や、幕府と討幕軍の武力による戦争も始まります。
ここからの内容については新選組が好きな人や、幕末が好きな人なら馴染み深い所になってくる……所で本記事は終わります。
大体後は分かるでしょう!漫画とかでもやってるし
僕は分かりません、調べてまたまとめようと思います。
4.補足のまめちしき
そもそもなぜ尊皇攘夷思想が上下士達に広まっていったかというと剣術の存在があるようです。
?
ちょっとピンとこないですね
当時は剣術を習って箔をつけたい人がいますが、道場の免許というものは基本江戸で取るものです。
なんか免許センターに行くのに電車で2時間かかるみたいな話ですかね、埼玉だけかな?
みんな江戸に行って、習うと同時に尊皇攘夷なるすごい思想があると国に持ち帰るわけですね。
平成中期に地方オタクがコミケとかで関東オタクの家に行って、ひぐらしがすごいとか東方がすごいとかいうのを聞いて更に他のオタクに伝播していくのと一緒ですかね、一緒かな?
道場は試衛館(近藤、土方、沖田)、練兵館(桂、高杉、井上、伊東、品川弥二郎)が市ヶ谷辺り
千葉道場(坂本)が東京辺り
玄武館(山南、藤堂、清河)が神田辺り
士学館(武市、岡田)が丸の内辺り
になります。
最寄駅じゃなくて主要駅の近くで見ています、現代人から見るとそんなもんかと思いますが、徒歩で行ったら遠いのでしょうね、試してみる気にはなりません。終電逃したら道場巡りの気持ちを味わうのもいいでしょう
あと永倉新八は当初神道無念流の撃剣館にいましたが試衛館にスライドしていますね、撃剣館の場所はよくわかんないね…
5.終わりに
今回は歴史の振り返りをしました。これ英傑大戦の記事として書いていいんですか?BANされますか?
間違ってるところとかあったらコメントください、吉見百穴くらいガバガバな記事なので、えっ吉見百穴分からない?ショッカーのアジトだった所だよ
続きは必要に応じて書きます、というかカードが増えてから書かないと只の歴史の教科書の劣化版じゃないですか?皆も実家から教科書を引っ張ってきて勉強、しよう!
この膨大な文字数の中に、伏せ字になってるところが何箇所あるのか答えられたらちゃんと読んでると思われます
大変興味深く読ませていただきました。
自分は三国志はぼちぼちわかるんですが、日本史は苦手でして良い勉強になりました。
ありがとうございます。