突然だがこんな話をしよう。
赤壁の戦いに勝ったことで孫呉の運命は変わっただろうか?
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赤壁の戦い。官渡の戦いを制して荊州の劉表をも降伏させ、乗りに乗って天下統一も間近と思われた曹操軍を、孫権・劉備連合軍が打ち砕いた戦い。三国志を知らずとも名前くらいは知っている人が多いであろう、有名な戦である。
これが一発逆転の、まるで桶狭間の戦いのごとき、劇的な勝利であったことは言うまでもない。曹操軍に疫病が蔓延していたとはいえ、その隙をついて火攻めで大軍を退けた孫権軍の手腕は見事と言える(多分)。だが、歴史の結果はどうであろう。赤壁の戦いに勝った孫呉はその勢力を保つことこそできたが、結局、魏の領土を侵し、勢力図を逆転させることは叶わなかった。劉備軍もそれは同じである。
彼らが奪えなかったもの。
それは、荊州の地だ。
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荊州は非常に大事な土地である。ここからなら曹操や献帝のおわす都を攻めることも可能だ。実際、関羽に襄陽が攻められ、水害もあって守城を行っていた曹仁と于禁が危機に陥ったときには、曹操は弱気になって遷都をも提案している。曹操にとって、荊州の地はまさしく喉首であったと言えるだろう。孫権軍や劉備軍に本物の一発逆転のチャンスがあったとすれば、それは荊州の奪還に他ならないはずだ。
だから、もしも。
もしも、赤壁の戦いのあとに。
周瑜軍がその勢いのままに、江陵を即座に奪い取って北進し、襄陽を、あるいは荊州を奪い返すことができていたら?
その最初で最後の夢。
一瞬の大逆転の機会。
それを賭けた乾坤一擲の戦場、それこそが
江陵の戦いであり、周瑜が叶えられなかった心残りであり、曹仁という曹魏の誇る最強の親族の面目躍如であり──曹仁と周瑜の因縁なのである。
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とまあ適当にかっこいいこと書いてみたけど、要するにこの記事は曹仁と周瑜の因縁について話がしたい記事だ。
私は曹仁と周瑜の因縁が好きなあまり、基本的に誇張して書くので話半分に聞いてくれると助かる。なにせ私はこの二人に関して、武田信玄と上杉謙信、徳川家康と石田三成並みの因縁だと思いこんでいる。
とはいえ彼らの戦いが曹操軍や孫権軍のその後に影響を与えたのは確かではなかろうか。江陵が迅速に征圧できれば周瑜は病に倒れる前に巴蜀に攻め込めたかもしれず、更に遠く涼州の馬超たちと連携が取れたかもしれない。これが周瑜の考えていた天下二分の計であった。涼州方面と荊州方面から同時に攻め込まれていては、いくら曹操軍といえども何が起きたかはわからない。
あるいは荊州が攻め落とせなくとも、周瑜が矢傷を受けていなかったら? 周瑜は江陵の戦いの際、流れ矢で傷を負っている。それが彼の死因とどう絡んでいるかは予測の範疇を出ないが、少なくとも彼の体調に悪い影響があったことは確かであろう。周瑜が生きていれば──は、呉好きなら誰しも考えるたらればだ。
歴史のifを考えるうえで、江陵の戦いは一つのターニングポイントと言ってもいいのではないか。
そんな歴史が変わったかもしれない戦いの主役、それが曹仁と周瑜である。彼らは己の主君のため、一年間、江陵という土地を争った。これが因縁の強敵関係ではなくてなんであろう。これは天下分け目の決戦だったかもしれないのだ。
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さて江陵の戦いの重要性について語ったところで、少し彼らのバックグラウンドに目を向けよう。二人がどれほど凄い男たちであったかという話だ。
周瑜は言わずと知れた孫策の義兄弟である。軍事的な有能さもさることながら、周家という名族の長が率先して孫家に首を垂れることで、孫家の支配力を盤石にする意味でも尽力した。孫策亡き孫家をその家柄と能力で強力にバックアップした眉目秀麗の天才といって差し支えなく、その忠義も、働きも、まさに孫呉随一と言っても過言ではあるまい。
一方の曹仁も、凄まじい経歴を持つ曹魏の筆頭武将だ。彼は曹家に生まれながらにして家出をしていた放蕩息子である。正史の彼に関する記述は、どうも淮水・泗水付近で山賊まがいのことをやっていた過去を示唆している。その経験が活きているのかなんなのか、彼は曹操の親族の中でも非常に軍事的に強かった。彼が陣頭に立った戦はほぼ負けなしだ。曹操も彼の武勇を信頼するあまり、太守として任命されてもその仕事をさせずに手元に置いたほどだ。
孫呉の礎、周瑜。
曹魏の天人、曹仁。
二人の衝突はまさしく頂上対決。あえて主張したい。江陵の戦いは地味ではないと。赤壁のおまけではないと。
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そこまで面白い戦ならば、何故こんなにも知られていないのか?
今になっても特に注目されていない時点で、結局のところ地味な戦なんだろう?
──そうお思いの読者諸兄もいらっしゃるだろう。
実際地味ではある。一年間もの時を戦いに費やした彼らだが、その内容がどのようなものであったかは一部しか伝わっていない。周瑜の矢傷に関しても流れ矢を受けたとしか書いておらず、そこに赤壁や官渡のような劇的な策謀、美しい物語的な面白さはない。
まあでも、それにしたって、ちょっと不当に扱いが悪いと思うんだよな。
いや、これはSEGAに対してではなく世間一般に対する文句である。ちなみにSEGAはエグいくらい江陵強火勢なので。
これ前作の三国志大戦のストーリーモードなんですけど、この文章読んだ時流石に私が一回中の人に乗り移ったんじゃないかと思いましたよね。
話を戻すと、江陵の扱いの悪さには演義の影響があるのではないだろうか。
三国志演義では、
周瑜と言えば諸葛亮の噛ませ犬である。
そして
曹仁と言えばいろんな武将の噛ませ犬である。もう誰の噛ませ犬とかそういう問題ではない。
新野の戦いとかいう負け戦がどこからともなく生えてきた男だ。貫禄が違う。
少なくとも演義だけ見て、彼ら二人を「めちゃくちゃ強い人たち」として認識するのは難しかろう。このせいで江陵の戦いは必要以上に地味な印象になってしまっているのではないかと、私は邪推している。
だから一度、地味だという色眼鏡を外して二人の戦いに目を向けてほしいのだ。
これは最早祈りである。いやほんと。頼むよ。
今からでもめちゃくちゃ人気の戦いになったらSEGAが伝を作ってくれるかもしれないじゃん。
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SEGAの話を出したところで、この大戦シリーズにおける曹仁と周瑜に目を向けていきたい。
大戦シリーズにおける二人は、というと。
私がびっくりするくらい因縁の関係にされている。
そもそも三国志大戦の頃から彼らは一騎討ちに相互に特殊台詞があった。ちょっと意味がわからない。これがどれくらい貴重かというと、うーん、なんていうか、すっごい貴重だ。そもそも三国志大戦は特定のシチュエーションにおける特殊台詞が一つしかない。要するに一騎討ち特殊台詞は複数ある武将はおらず、多くともたった一人に対して持つものである(無い人も多くいる)。そのせいで、例えば関羽などは大量の魏将から一騎討ち特殊台詞を貰うが、彼の一騎討ち特殊台詞は黄忠向けの一つしかないので誰にも返事をしない。
だから、これが相互にあるというのは、SEGAが特殊台詞を吐くたった一人の設定を相互にしたということである。
ええ……。
おかげで曹仁と周瑜は完全にお互いに意識し合った因縁の相手としか思えない状態になっている。
ただしこいつら、一騎討ち特殊自体が普通にプレイしているとまず発生しないこともあり、ほぼほぼ知られていない。
では前作はともかく今作はどうか。
って、もうここまで読んでいる奇特な人なら半分くらいは知っているよね。
そう、
こいつらまたしても特殊台詞がある。もちろん、相互に。
お分かりいただけただろうか。
SEGA的にも江陵の戦いは因縁の戦いなのだ。多分。
***
さて、江陵の戦いについて語ってきたが、いかがだっただろうか。
なんかすごい勢いで書いてしまったので、読みにくいところがあったらそれは申し訳ない。上手く読んでくれ。
現状、三国志伝は実装されるかは謎である。二人の戦いが物語として描かれることがあるのかもわからない。
それでもこの戦いのことを心の隅に留めていただければ幸いである。
あとSEGAさん。
周瑜を絆武将にしても曹仁への特殊台詞が出るようにしてください!!!!!
以上! お疲れさまでした!!!!
赤壁の戦いの前に孫堅殿が生きて荊州取ってたら一国志で終わっていたんだ!と思う者
(*´-`)
読みやすくて読み応えもあって面白かったです。
久々に曹仁を使いたくなってきました(緋単で)
>ふぇりさん
そこら辺まで遡ると群雄割拠すぎて果たして孫堅が生き延びたことがどう転ぶかわからない感もありますけどね……。歴史のIFは楽しいですね!
>14kahnさん
緋単でいいんだ!!!! 使ってくれ!!!!!
ていうか普通緋単ですよ、ねえ、そりゃあねえ(とくだいぶーめらん