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ぴよ幕末史跡旅in美濃~中津川~

by
栗花落
栗花落
英傑大戦カードと行く、史跡旅!
今回は岐阜県中津川市、中津川宿の萩藩関連史跡です!!
ちゃんと萩藩記事ですよ。けど他の人の話も少ししてます。


中津川宿は、中山道の45番目の宿場町です。
領地としては尾張藩の領地でした。


幕末期、公武合体政策により14代将軍将軍徳川家茂に皇女和宮が降嫁する際にこの宿場町を通っています。
その時に食べた菓子の再現をしたものが、和宮の誕生日と中津川宿に泊まった日の年二回販売されています。



中津川宿は長州藩が公武合体論から尊王攘夷論に転換する際の重要な出来事があった土地です。

先日の投稿で書いたように、幕末期の長州藩は初めのうちは長井雅楽の航海遠略策を藩論としていました。
航海遠略策は幕府主体の公武合体論で、逆に桂小五郎たちは朝廷主体の尊王攘夷論……この時は破約攘夷(大老井伊直弼がアメリカ等の外国と独断で結んだ修好通商条約を破棄し、外国との交易を中止するという思想)を目指していました。

井伊直弼が結んだ修好通商条約は関税自主権がなく、治外法権を認める不平等条約でした。
これは朝廷に無断で結ばれ、天皇も認めていない条約で、尊王攘夷派としてはこれを受け入れるわけにはいきません。


……なんか歴史の授業でやったことあるぞ?テストの解答用紙に多分この答え書いたよ。
懐かしすぎないか??云十年経って今更歴史の教科書が言っていたことを理解しました。

実際不平等条約ではありますが、あの当時の世界と日本の技術と文化の違いのなかで『日本が清のようにならないように』と幕府側の官僚たちは知恵を絞り世界との国交を開く努力をしていたので、なんとなく「当時はその思いは伝わらなかったし、報われなかったんだな……」という気持ちにもなりました。

それはそれとして開国を目指していた老中・堀田正睦を実装して欲しい。私は堀田氏の誰かの英傑大戦実装を待ちわびている。贈り物をあげて絆にしたいんだ!!



『桂小五郎隠れ家址』

1862年、長州藩が長井雅楽の航海遠略策を藩論としていた時期に、桂小五郎は中津川宿を訪れました。
彼の目的は中山道経由で江戸から上京してくる毛利敬親を待ち、藩論を変えるよう説得する事でした。
中津川宿についた小五郎は「料亭やけやま」に潜伏して敬親が中津川宿につくのを待ちます。
中山道沿いではなく、少し奥まったところにあるのがいかにも潜伏場所っぽいです。この町家は2018年に市街地活性化の一環で再生し活用するとの話があったため、いつか綺麗にされて活用される時が来るかもしれません。



『中津川宿本陣跡』

小五郎は敬親が中津川宿に到着すると、井上聞多たちと共に藩主毛利敬親と三日間に及び会談し、藩論を破約攘夷に変更させました。
長井雅楽弾劾の「謗詞一件」と桂小五郎の「長州中津川会談」と呼ばれるこの会談を経て、ここから長州藩は公武合体から一気に攘夷への道を進みます。
敬親と小五郎たちが会談をしたのはここにあった中津川宿本陣の二階です。



『中津川村庄屋居宅』先生が通った中山道と一緒に撮りました。

町並みとしては宿場町の雰囲気が残っている場所はとても少ないですが、資料館があるためその点はとてもありがたいです。
私は中津川会談辺りの展示ばかり見てました。うたちゃんの名前もちゃんとあったので個人的にはとっても嬉しい感じ!(結末はアレとしても)


『中津川市中山道歴史資料館』

吉田松陰先生も中津川を訪れており、1853年5月16日に宿泊していた大湫宿から大井宿に至り、中津川で午食をとり、そこであった人達と連れ立って落合を経て三留野へ向かったと癸丑遊歴日録に記録されています。


『大井宿(恵那市・中津川宿に行く前に松陰先生が通った宿場町)』

中山道は江戸までの距離が東海道よりも40キロ程長く、峠が多く往来には困難な場所が多かったのですが、東海道のように海路(桑名⇄宮(名古屋市熱田区))や河幅がある川もなく、水の増減に左右されることが少なかっため安定した往来が可能だったのでそちらを選ぶ人も多くいたそうです。
上記の理由から皇女和宮御降嫁の際もこの中山道を使いました。

江戸から今日に上る際に、清河八郎率いる浪士組も中山道を使用しており、1863年2月9日に中津川宿に泊まっています。


明治期に入ってからは、自由民権運動を起こした板垣退助(大戦名は乾退助)が中津川宿脇本陣森家で遊説時の懇親会と演説をしています。
乾くん、中津川に行ってると思ってなかったからカード持ってなかったよ!



『中津川宿脇本陣森家』

この森家は織田の森可成の一族と言われています。
可成は現行で出ていますが、息子の長可と蘭丸はまだ実装されていないのですが、いつか来るかな?

中津川には幕末期に重要な役割を果たした平田国学を修めた人物が多くおり、そういった人たちも歴史を動かしていました。
桂小五郎がやけやまに潜伏できたのも、この平田国学の門人二人の手引きがあったからでした。
(国学=江戸時代に生まれた、日本独自の思想・文化・精神を明らかにしようとする学問。平田国学は平田篤胤が提唱した神道の色が濃い国学)

こうやって歴史を調べていくと英傑大戦で出して欲しい人が山ほど出てきて困りますね!
歌川広重も平賀源内もいることですし、国学者も出して欲しい気持ちがモリモリわいてきました!!

英傑大戦はやっぱりたのしい!!歴史の勉強もたくさんできる!最高!!



史跡旅後の大戦は勿論小五郎くんと敬親さまを入れました!史跡旅後1戦は関連人物を入れてやることにしています。
敬親様の絆武将が欲しい……。


次回の史跡旅は彦根の予定ですが、その前に少しだけ違う所を書くかもしれません。
では今日はこの辺で!良き大戦ライフを!!
更新日時:2023/07/17 22:41
(作成日時:2023/07/17 15:36)
コメント( 2 )
yunatogirls
yunatogirls
2023年7月23日 13時22分

中津川と中山道は通り道以外に何があるんだ、とか思っていましたw
桂君が毛利敬親の方針を変えさせた所ですか。へー。ウタさんの結末がアレに決まった所と…。
結果的に倒幕派が官軍になるわけですが、それはつまり国学者達と対立するのでは?とか思ったり。
 
> 息子の長可と蘭丸
 信長伝が進めば登場するでしょうね。なんか平安時代ばかり進みそうな気がしますが…。

栗花落
栗花落
2023年7月23日 22時24分

yunatogirlsさん→
通り道なのは間違いないですwww通り道だから桂くんが通る筈の敬親様を待ち伏せできたんですしw
切腹までは決まってなかったのですが、時勢も有って失脚はほぼ決まりましたね……。
元々国学が尊王攘夷運動の切っ掛けになった学問なので、倒幕軍とは思想根幹が同じなのでそこは問題ないのかなーと思います。

次は流石に三国志大戦の兼ね合いもあって三国志が実装のような気がしますが、どうなんでしょうね。戦国も数が少ないのですが……。

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