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昌豊から昌秀に

by
内藤昌秀
内藤昌秀
10日以来英傑大戦がやれていない内藤昌秀です。

今回は戦国大戦では内藤昌豊だった表記が内藤昌秀になってる内藤さんの名前について書きたいです。
私の考察が思いっきり書かれる部分があるので暇つぶしに読んでくださればありがたいです。

Twitterで内藤昌秀と検索をかけていたら、結構後に気付いた方や使い分けが分からんとあったので気になって・・・



昌豊はまあ誤伝でしょうかね、昌秀は書状から確認されている諱です。
昌秀という名前の書かれた書状は実物を見たことないですし、そんなコネもないので一度見てみたいのですが、平山優先生や丸島和洋先生とかは
実物確認してるのではないですかね?じゃないと本書けない。
実物見たい、見られたら髪全部禿げます。
戦国大戦では私はこれが実名と知ってもらうために主君名にしました。

問題は昌豊表記。
甲陽軍鑑には「昌豊」なんて書かれてないです。
というよりほとんどの武将って諱が書かれてない印象が強かったです、名前研究で甲陽軍鑑品第59まで軽く読みました。
内藤修理・武田典厩・馬場美濃みたいな書かれ方。

こんな感じですね。
江戸時代中期くらいの写本でもこんな感じに諱は書かれてないです。

昌豊表記はいつからなのか?というのを今・・・というか人生かけて調べていきたいですね。
今研究対象は名前です。

多分昌豊表記は江戸時代からだと思うのですが、詳しいことまではよく分かってないです。
とりあえず武家事紀という資料とか武田二十四将図の一部だと昌豊って書かれてたりします。
武田三代軍記にも書かれていると思ったのですが、しっかり読み込まないと分からないです。
寛永諸家系図伝という系譜にもあるか確認したいのですが、これもまだ読めていないです。

私の中で今のところ一番古い昌豊表記がある資料。
寛文3年(1663年)成立の穴原内藤一族由緒書。
長野県南佐久の内藤一族が役所に提出したらしいものです。
実物は見たことが無いので、実際どういう書体等で書かれているか分からないですが「甲州の剛将 内藤昌豊公とその子孫」という
長篠城址の保存館で買った本に収録されています。
調べた方が由緒書を活字で纏めてくださっているので分かりやすいです。

私の中では今のところ由緒書が一番昌豊表記が古いのではないかと思っています。
武家事紀は1673年あたりに序文が書かれているそうなので、それより後に昌豊になっているかと。
1700年になる前には書かれてるのではないかと。
近松門左衛門の浄瑠璃「本朝三国志」にも昌豊ってなっているそうです。

資料によっては信豊になってるのもありますが、典厩(後に相模守)じゃねえか!

子孫はどこで昌豊の名前を得たのか。
これに関して資料があったら是非教えてください。


昌豊ではなく昌秀が正しい諱だと思ってくださればいいと思われます。

最後に

ニコニコ動画に色々動画を投稿しているので良かったらどうぞ、歴史関連もまあまああります。
https://www.nicovideo.jp/user/24427564

ではでは。


 
作成日時:2022/03/15 19:34
カテゴリ
雑談・雑感
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