454

ぴよ幕末史跡旅in長州~湯田温泉~

by
栗花落
栗花落
萩藩だ!長州藩だ!!山口は最高だ!!


今回は山口県山口市!

大内さんのお膝元……ですが、今回は幕末旅なので幕末史跡です。

湯田温泉駅から山口駅にかけての一帯は幕末史跡が沢山あります。此方の両駅へは新幹線の新山口駅から山口線に乗って向かいます。

山口は防府と並び、新山口駅から在来線で手軽に行ける山口の観光地の一つだと思います。
新山口駅は山陽新幹線駅が開通してのぞみが停車するようになってからの駅名で、かつては小郡駅と呼ばれており、人によっては小郡駅の方がわかりやすい方もいるかもしれません。
山口の辺りは大内氏の統治の元、古くから栄えた土地であり、大内塗という工芸品や国宝である瑠璃光寺の五重塔、常栄寺雪舟庭など貴重な文化財が沢山存在します。
山口県の県庁所在地で幕末期には長州藩が萩からこの山口に藩庁を移して活動をしています。


今回は湯田温泉駅で下車し、最後に山口へ向かうルートで行動しました。
しかし、両方一緒に書くのは長くなりすぎるので今回の記事は湯田温泉方面に絞ります。日付も二日取りましたしね!


湯田温泉は開湯が約600年前、白狐が毎晩浸かっていた湯を地元の寺の方が発見したのが始まりと言われる温泉です。いろいろな著名人が赴き、この地で温かな温泉を楽しんでいます。私も取り敢えず湯田温泉の宿に泊まったので温泉に浸かってきました。


湯田山口周辺を周るに当たって、一番便利なのはやはり自転車です。小回りが利くのが個人的には最高です。
山口駅前にはレンタサイクル屋がありますし、アプリのDLが必要となりますが現在山口市はecobikeの実証中の為、それを使うのが良いかと思います。
私は陽が長い時期は陽が落ちるまで史跡巡りをしている為、返却時間の制約がないecobikeを使用しています。なんかたまに解錠の接続が悪くて不安になるけど……!

湯田温泉駅を出発し、まずは周布政之助最期の地です。
初っ端から最期の地、というのもなんかどうかと思うんですが、ルートがここからだったんで……一番初めに周布さんの男の意地を見せて頂きます。
此処は湯田温泉の繁華街から少し離れていて、尚且つ周りの他の幕末史跡がない為中々選択肢には入らないかもしれません。
まわりに史跡がないから一番初めに行ったんですけどね……私も。



『周布政之助の碑』

ここは周布政之助が自刃した屋敷の近くにある公園です。
1862年6月、公武合体論である航海遠略策の周旋が失敗し長井雅楽が罷免され、長州藩内の過激な尊皇攘夷派が台頭し始めました。
その後の1863年9月30日にそれを快く思わない天皇、会津藩、薩摩藩等の勢力が過激派攘夷である公家7人と長州藩を排斥する政変を起こしました(八月十八日の政変)。
それに不満を持った久坂らが復権のために1864年8月20日に禁門の変を起こしてしまいます。
この時期は長州藩内でも考え方の違いによる衝突が激しく、禁門の変・第一次長州征討の後、長州藩では椋梨藤太を始めとする俗論派が台頭し、尊皇攘夷派は実権を奪われていました。
その際、周布も謹慎を命じられ山口にある吉富簡一の屋敷に滞在していました。
久坂玄瑞や来島又兵衛の行動を抑えることが出来ず、起こった禁門の変により長州藩が政敵となったこと、またそこから俗論派に実権を奪われたこともあり、その責任を感じた周布は、1864年9月26日にこの碑の立っている場所から少し離れたところにある吉富簡一の屋敷で遺書を残し、自刃しました。

武士の責任の取り方が切腹なので、周布さんも勝手に切腹だと思い込んでいたんですけど、どうも吉富家の裏庭で立ったまま短刀で喉を掻き切っての自刃だったようで……予想外でした。

この屋敷の持ち主の吉富簡一と言う人は、井上聞多の幼馴染で非常に仲が良かった人物だそうです。
井上の政治基盤を整える手助けをした人物でもあるので、もしかしたら実装の可能性はあるかもしれないですね!

この碑の横の墓地には周布さんの墓所がありますが、墓碑には謹慎中に名乗った『麻田公輔』と書かれています。
ちなみに周布さんの謹慎の理由と言うのが、江戸であった梅屋敷事件という長州藩士と土佐藩士の騒動です。

発端は高杉久坂井上等が横浜異人館襲撃計画をしていた事でした。
この情報を江戸に居た前土佐藩主であった山内容堂が知り、それを長州藩主である毛利敬親の息子の元徳に知らせます。
知らせを受けた元徳は計画を止めさせようと梅屋敷で高杉たちを説得し、その甲斐があり計画自体は中止となりました。
そこまでは良いのですが、その時に梅屋敷であった宴会でたっぷり酒を飲んだのか、酒に酔った周布がこの後に土佐藩から来た使者に対して山内容堂に対する暴言を吐いてしまいます。
これに怒った土佐藩士が翌日抗議に行くのですが、当の周布に会う事は出来ず……その晩に元徳が土佐藩邸を訪れて容堂に周布の失態を詫びて事件は終結します。周布政之助暴言絵巻っていう絵巻があったりもします……なんという不名誉……。

酒の不手際で上司の手を煩わせる部下……酒は飲んでも飲まれるなの典型ですね!
周布さん、残っているのがフグ型徳利を持ってニコニコしてる写真ってくらいお酒が大好きなのですが、酔った後がダメダメなんですよね……。

この事件によって周布さんは謹慎となるのですが、麻田公輔はこの謹慎の時に変名した名前なんです。
周布政之助は謹慎、変わって麻田公輔が藩の仕事をします。一緒の人ですが!!!

この辺り一帯の町名は周布町なんです。周布さんの周布のようですが、いつから周布町と呼ばれているんでしょうね。


次は少し自転車を走らせて井上公園へ向かいます。
湯田温泉の繁華街のなかにあります。湯田温泉はこの辺りがホテルも店も多くてにぎわっています。

『井上馨像』

井上公園は井上馨……大戦では井上聞多の生家跡にあります。
此処には井上馨の像があり、八月十八日の政変において京都から落ち延びて此処に滞在した七卿の碑もあります。


『七卿の碑』

三条実美をはじめとする尊王攘夷派の公卿7人は京を追われた後、長州藩を頼り山口の地を転々としていきます。
そのため、山口県には七卿落ちの関連史跡がたくさんあります。



『何遠亭』

この公園の端にも何遠亭と呼ばれる建物が建っており、これは七卿が山口に滞在している間に三条実美が使用していた建物を資料を基に再現したものです。
井上公園には足湯があり、ゆっくり湯に浸かりながら井上さんを眺めることが出来ますが、平日の夜には学生が足湯に浸かりながらキャッキャしているので静かに……とはいかないかもしれません。


『長州藩茶屋臨野堂跡』

井上公園から少し離れた所には長州藩茶屋臨野堂跡があります。
ここは藩主の休憩や他藩からの来客者用に作られた長州藩茶屋臨野堂があった場所です。
山口の萩往還沿いには小郡御茶屋や三田尻御茶屋等の『御茶屋』と名のつくものの跡がけっこうあるのですが、この御茶屋というのは藩主が参勤交代等外出の際に宿泊したり休憩をしたりする施設の事をいいます。現代の御茶屋とはなんとなく意味合いが違いますね。
吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎等の幕末の志士が密議の場所として利用したとのことですが、先生だけ何故か「ホントに……?」って気持ちになりました。先生が出歩いていた時期ってそこまで攘夷運動は激化していない時期で、密議をすることがあったのか……?という疑問。
けど先生は藩主に付いて江戸に向かっていた時期に山口の地で宿を取り史跡の散策をしているので、その時に此処を訪れていた可能性はありますね。


『瓦屋跡』

御茶屋の向かいにはこの碑があります。
瓦屋も多くの志士たちが使用した旅館です。現在はこの碑と説明板以外にはこの地を偲ぶものはありません。
山田顕義の奥さんはこの瓦屋の娘さんです。

そしてこの瓦屋の横にあるのが松田屋です。


『松田屋ホテル』

今泊まりたい宿No.1の宿です!!

ここも幕末の史跡としてとても重要な宿です。
館内には高杉や桂等が会合、密談の折に入浴した浴場(浴槽は江戸末期のものとの事)、高杉が文字を刻んだ柱、庭園には西郷、木戸、大久保会見所があります。伊藤俊輔が書いた所も額装して掲げられています。
維新に関する展示をしている明治維新資料室もあり幕末長州好きには大変気になるお宿です!

私ですか!?行ったことないんですよ、ここ!大分高いんで……ホントに非常に高いお宿なので、なかなか手が出ないんです。
一人でも素泊まり宿泊は可能なのですが、この金額を払うのに一人で泊まって誰とも幕末の興奮を分かちあう事は出来ないのか……と思うとちょっと考えてしまいます。寂しい。

中を見たいぞー!!!

🐥はいつでも松田屋に一緒に泊まってくれる長州藩女子オタクを募集しています。


お次は湯田温泉の繁華街から離れまして、井上馨遭難の地へ。


『井上馨遭難の地』
此処は禁門の変の後に山口城で行われた藩主を含めた会議の際に、幕府に対抗すべきだと説いた井上馨が俗論派の人間に襲われた場所です。


『袖解橋跡碑』
この事件は袖解橋の近くであったことから袖解橋の変と書かれていることもあります。

瀕死の重傷を負った井上ですが、友人である医師の手当てにより一命を取り留めます。
これは9月25日の出来事で、この翌日の26日朝に周布政之助が自刃します。
上記で述べたように周布がいた吉富家の当主は井上の親友だったので、この時には井上の手当てに赴いていたそうで……元々周布の自刃を止めていた吉富がいない間の行動だったとどなたかの記事で拝見しました。こういうつながりを考えるとやはり切なくなります。
出典が知りたい……そんな切ないエピソード……読みたい……。
庭で喉を掻き切って……と言うのは三宅紹宣先生の『幕末維新の政治過程』の論説に載っているので多分その中から参考文献を漁ればあるような気がしますが……。
この本欲しいけど高いんですよね……。



ちなみにこの時に治療をした医師の所郁太郎の顕彰碑が井上公園の像の横にあります。


『赤禰武人の碑』

湯田温泉編、最後は赤禰武人の処刑地です。
『井上馨遭難の地』も此処も湯田からは遠いというか、多分山口編で出した方が近い……?というかんじなのですが、まあ置いておきましょう。

赤禰は高杉の後、奇兵隊の総督となった人物ですが過激派と意見が合わず、後々上京して長州の立場を幕府に説きに向かいます。
この行動が藩内で裏切りとみられ、捕らえられた赤禰はこの場所で処刑されました。藩の為に取った行動が裏目に出たという事ですね……。
撤退時の「違うんだ……私は…!」という台詞は恐らくこの行動の弁明かと思います。つらい……。


湯田には大戦があるゲーセンがあるので勿論やってきましたよ!
巡った史跡でデッキを組んだらなんか見た目からダメそうに見えました。



以上、今回は一旦ここで区切りとなります!

私自身が井上馨近辺に関して余り詳しくわからないので簡素でしたが、周布さんだけやたら長い説明をしたおかげで変に長くなってしまいました……。
今回人が死んだ場所に始まり、人が死んだ場所で終わりましたね……?
時にはそんなこともあります!大目に見て頂けると幸いです。

次回は続きの山口編か、もしくは飛んで萩か……その他の地方かもしれません。気の向くままに書く予定です。



とりあえず、湯田温泉はこれにておしまいです!変わらず歴史専門家ではないので、違っている部分があるかと思いますが、なまぬるく見てやって下さい。
ここまで読んでくださり、どうも有難うございました!
更新日時:2023/10/14 22:51
(作成日時:2023/10/14 00:36)
コメント( 1 )
yunatogirls
yunatogirls
2023年10月15日 23時15分

幕末は若くして散った人が多いので、史跡巡りも群雄伝もそういう話なってしまいますね。
 
井上君襲われて命を取り留める、群雄伝でありましたね。暗殺が流行った幕末コワイ。
遭難の地。群雄伝では江戸のお屋敷の背景でしたね。似ているかもしれない。
 
史跡デッキ、漢の意地持ち二人というのがw
ワラはあまり見ないので、井上君の計略は使えなさそうw
 
>御茶屋
 藩主の茶屋ですか。専門……だとすると来ない時は年中お休み?
 それは無さそうなので、来られた時だけ専門になるのでしょうか。
 
 周布さん酒飲みだったのか。お客様相手で泥酔暴言はいけませんなあw
 山田顕義の奥さんはこの瓦屋の娘さん。へー。長州伝で新カードで出てきませんかねw
 松田屋って一泊幾ら?

コメントするにはログインが必要です
シェア