英傑大戦で見る史跡旅!
今回は島原市の坂本龍馬と勝海舟と吉田松陰の関連史跡です!
本当は島原は英傑大戦で松平信綱と天草四郎時貞が実装されたら……と思っていたのですが、まだ先のような気がするし時代も合わないので……。
龍馬も先生も現行で居ますしね!先出しても良いよね!!
私が島原に行ったのは2018年の夏でした。英傑大戦が始まる遥か前ですね。
当時徳川家光に興味があった私は、島原旅行の予定立てていました。この年はたまたまキリシタン関連遺産が世界遺産に指定された年だったのでとても盛り上がっていました。
そして同時に坂本龍馬にも興味があった私は、翌年には無くなると言われていた史跡に行きたくて行程を考えました。
史跡も永遠のものではないのです。
今回は昔の写真を掘り返し、英傑大戦で坂本龍馬や勝海舟に興味を持った方にかつてそこに有った史跡を見て貰えたら……と思い書いたものです。
『龍馬長崎初上陸の地』
数年前に無くなってしまった史跡、それが此処『龍馬長崎初上陸の地』です。
1864年2月21日に幕府の海軍を率いていた勝海舟に随行していた龍馬は島原の港に入り、小船に乗り換え此処で初めて長崎の地を踏みました。
この事は海舟日記に書かれています(「21日払暁、島原へ着船。城下本陣へ休息。直ちに出立。」)。
これが船から陸に上がる際に使われた階段です。
夜の階段。
この階段は龍馬たちも登ったものです。
潮の満ち引きが感じられる素敵な階段ですが、これがこの場所が無くなってしまった原因です。
この地区は海抜が低く、船溜まりからの浸水被害が多発していた地区でした。そのせいもあり、2019年度からの埋め立てが決まっていました。
正直平時のこの階段の状況を見るだけでも、埋め立てるという行政の判断は間違っていないと思います。
満潮の時に二段しか余裕がないのに、台風や大雨に耐えられるとは思えないので……。
現在駐車場や建物になって何も残っていない場所も沢山ありますが、今ある所が無くなる!と聞くとやはり寂しくなります。
島原鉄道の車窓からもこの船溜まりが見えました。
とても綺麗な場所でしたが、やはり今を生きる人たちの生活が一番大事ですから仕方ないですね。
今はこの地は完全に埋め立てられています。
公園にするとかそういう話だったと思いますが、今現在はこの土地がどう扱われているのかは知らないのでとても知りたいです。
船溜まりの向かいにあり、龍馬の史跡を解説したパネルが置いてあったこの島原湊龍馬館も今は更地になっています。
人々の暮らしに合わせて色々移り変わっていくものですね。
ここから下の史跡は私が行った当時とは殆ど変わっていないはずです。
『一番街アーケード通り』
島原湊から上陸した一行はこの通り沿いにある町別当、中村孫右衛宅に立ち寄り出立しました。
この中村家の門は現在は違う場所に移築してあります。中村家があった場所には今龍馬の顔はめパネルが置いてあります。
『中村家屋敷門』
綺麗に手入れしてある立派な門です。
1850年12月に松陰先生も九州遊学の折に、この島原の地にも赴いています。
『島原武家屋敷通り』
城の近くには道の真ん中に水路が走る雰囲気の良い武家屋敷があり、その通りから少し離れたところにある島原藩士・宮川度右衛門の邸宅を訪ねるのが松陰先生の目的でした。
宮川度右衛門は砲術師範だったため、同じく兵学を修めている松陰先生は彼に大砲について教えを請いました。
12月3〜6日に連日宮川邸を訪れた事と、宮川から聞いた言葉(「宮川云、直發砲ニ非サレハ功ヲ成ス事ナシ、故ニ近頃葛論碽ヲ造ル」)は西遊日記に記されています。
この人何処にでも出没するな……!!??って感想なんですが……!!?
松陰先生、日本国内歩きまくってる。すごい。なんて充実した旅人生……って思っちゃうよ。
自動車、電車、飛行機、あらゆる交通が発達した現代でもこれだけの地を全て行こうと思ったら凄い労力です。
先生、島原に入る前に南島原市の原城跡に行って、島原から雲仙市の地獄谷温泉に行ってまた島原に帰ってきてます。
『原城跡(南島原市)』
南島原市も雲仙市も島原市からはそれなりに距離があるので、正直えええ……って思います。車ならいけるけど。
体力おばけでは??
関係無いけど、松陰先生がこの日記に書いてる「晴。朝餉、サツマイモと栗を合わせて炊いたものを食べる」ってとこ好き。前の日にもサツマイモ食べてたが。
江戸時代の人の交通手段って基本徒歩と馬と船だから当時の人ってすごいですよね。
よく考えると各藩から京、江戸までの距離も半端ないわけですから。
う、うたちゃん何処通ってどこに泊まっていたか教えてもらっていいですかね……?行きたいんで、是非……どっかに載ってないかな…。
京までは萩往還を通って、三田尻から航路で室津、大坂まで?それとも高森の方行きました……?参勤交代が東海道なので東海道ですかね?
気になる……こうなると筆まめで日記書きまくってる松陰先生が有難すぎますね。
……話脱線しちゃった!このままいくと延々と街道をこねくりまわすだけになりそうですね!
最後島原関係なくなっちゃったんですが、今回は以上となります。
今ある史跡がずっと残っているとは限りません。碑が立っているだけのところもありますが、それだけでも有難いです。
行きたいところは行けるうちに行きたいですね。
では良き大戦ライフを!
記事upお疲れ様です。
当時の交通状況での移動距離としては信じられない行動力ですね。(Mapで位置関係確認して笑いました)
松陰先生、筆まめすぎて今の時代にいたらインスタ使いこなしてそう。
今回も、おもしろかったです!!
龍馬さんは人気ある英雄ではありますが、その人が通過したという船着場を保存となると微妙なところですね…。
松蔭先生はあちこち旅した挙句日本を飛び出す覚悟ですからね、遠くまで行ってもおかしくないですねw
松平信綱はどうだろw
天草四郎は戦国大戦で出ていたので、期待できますねw
pajamaさん⇨
読んでくださりどうも有難うございます!
距離がすご過ぎますよね!松陰先生、江戸期の最強の旅人なので色々行っていて凄いです。この時の旅行は佐賀にも熊本にも行っているので九州を渡り歩いています。
インスタなのかTwitterなのか……という感じですがw
面白いと言っていただけると、とても嬉しいです!これからも沢山史跡記事を書きたいです!
yunatogirlsさん⇨
微妙なところなのですが、やはり著名人が使用した史跡は観光資源的にも価値があったりするので、ここも残して欲しいと言う声はあったそうです。ここ目当てで遠くから訪れる方も確かにいたようなので……。
どこまででも行き過ぎて、何処の史跡に行っても名前を見るような錯覚をしますw
信綱も天草四郎と同じイベントの戦功報酬だったので行けますよ!きっと!!「神滅の使命」最高にカッコいい計略名でした。
> ここ目当てで遠くから訪れる方も確かにいたようなので……。
でしたか、さすが龍馬。
>「神滅の使命」最高にカッコいい計略名でした。
でしたか、忘れていましたw 天草はそこそこ流行った記憶があるのですが。
また登場すると良いですねw
yunatogirlsさん⇒
ネット日記とか見てると、結構いらっしゃいました。無くなるから行ってきた!って方も。
流行ったかと言えばまあ普通程度に使われてただけなんで、デジ武将って事もあって記憶には薄いかもなので仕方ないですw
あのままのイラストレーターさんで来てくれたら、いつか確実にバサラ武将も出るので是非お願いしたいです。