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ぴよ幕末史跡旅~長井雅楽ピックアップ~

by
栗花落
栗花落
 萩藩だ!長州藩だ!!山口は最高だ(三回目)!!


今日は長井雅楽の歴史・史跡日記です!
山口は〜とか言ってますが、今回は何処というわけではなく、ひたすら長井雅楽です!
我が愛しのうたちゃん!


戦国大戦で毛利輝元が出て以降、10年近くぬるく浅く萩藩の歴史オタクをやっていて、明らかに「この人の経歴は絶対に私に刺さる……」と思って敢えて避けていた人物だったのですが、英傑大戦での登場により避けられなくなりました。

だってめっちゃかわいい。

全てがかわいい。

額とうなじのほつれげもサラッとしたポニテもお洒落な眼鏡も横に置いてある刀使える?って聞きたくなる雰囲気も、風体のわりにちゃんとした男性の手の甲の筋があるところも全部最高にかわいい。
「これが現実だ、受け入れろ」という計略台詞も、「貴殿に真実が見極められるかな?」という伏兵台詞も、「現実を知らない者が、何を変えようというんだ」という落城台詞も強気で、群雄伝での穏やかさは!?(穏やかっていうか……なんていうか、ですが)って言いたくなるくらい強気で芯が強い。好き。


すべてが私好みでパーフェクトです。


コスプレ武将カードと缶バッジ下さい!!!




うちの絆うたちゃんもついでに見て。

はーめっちゃかわいいですよね?かわいいです、うつくしい。

最高に可愛いーうたちゃん常にいつもどこでも可愛いー。うたちゃんの持っている紙は航海遠略策の建白書かな??

皆私が見たいからうたちゃんの動画上げて、イラストも描いて欲しい。







さて、うたちゃんへの可愛いコールはこの辺りにして気を取り直して史跡へ向かいましょう。

今回は歴史の話がとても濃いですが、私自身専門家ではないため、素人が間違って覚えている箇所、事象が前後する部分、解釈が間違っている部分が結構ありそうなので生温く見てください……!あとうたちゃん以外の人物の事はあまりよくわからないです……。

また、うたちゃん贔屓のオタクの多大な主観も入っており中身もとても長いです!!あと絆台詞バレします。ご了承をお願い致します!








長井雅楽、本名(諱)は長井時庸といいます。
江戸時代は本名(諱)で呼び合うことはなく、一般的には通称・字で呼び合っていました。高杉晋作や久坂玄瑞等、他の幕末の面子も良く知られている名前は通称か字です。うたちゃんの雅楽は通称です。

長井雅楽は1819年に萩の松本村中之倉で生まれました。家は椿東中之倉を流れる手洗川の近くにあったとの事ですが、場所が明確ではありません。
恐らく生誕地があったであろう周辺は現在は民家もまばらで、道も細いですが自然が豊かなところです。


(2023年9月6日追記)
調べたところ、この生誕地があった道は周防長門(山口)から石見(島根)までを結ぶ石州街道だという事がわかりました。
うたちゃんの生家は街道沿いに建っていたという事ですね。



雅楽の生誕地である中之倉には人丸神社という神社があります。
ここは柿本人麻呂を祀っている神社で、雅楽が生まれる前に長井家が住んでいた鳥越という土地から城へと上がる道中に鎮座しています。


『人丸神社/山口県萩市椿東』
なぜこの神社を紹介したかと言いますと、此処の神社には長井雅楽の先祖と思われる人物が寄進した燈篭二基があるからです。



『人丸神社/山口県萩市椿東』
鳥居の後ろにある明和に寄進されたこの燈篭には『長井大江時泰』と書かれています。
大江は長井氏の本姓で、「時」はおそらく長井氏の通字(先祖代々で名前に使われる字)でしょうか。雅楽のお父さんの長井泰憲は「時」が入ってないですが……。
長井家があった場所の近くにある為、おそらく雅楽の血縁者の寄進かと思われます。お父さんの名前にも入ってる「泰」が入ってるし、おじいさまか誰かかな?と思ったのですが、家系図がないし萩藩主要役職者年表を見てもいない……これは誰……教えて、うたちゃん。

それは置いといて、長井氏の寄進のものがあると言うことは、この神社は長井氏と縁がある神社だったと言うことが推測できます。
鳥越にある家からの通り道ですし、辺りに他の神社もなさそうなのでここが氏神様だったのかな?


『人丸神社から鳥越へ続く道/山口県萩市椿東』

『鳥越まで続く道沿いにある桜谷川/山口県萩市椿東』
 

生誕地の次は、古明倫館跡です。


『古明倫館跡/山口県萩市堀内』

ここは今の街の中心地に移る前に萩藩校明倫館があった場所です。高杉晋作や桂小五郎の誕生地一帯からは少し外れた堀内にあります。
明倫館は藩が建てた学校で、このような藩が藩士たちを育てるために建てた学校は全国各地に300校ほどありました。
雅楽は四歳の時に父親を亡くし、家督を継いだ雅楽も此処で学び城に上がりました。


『古明倫館跡/山口県萩市堀内』

何も遺構は残っていませんが、今は土地が綺麗に手入れもしてあって良かったです。
9年前のここは草が生えまくって史跡……?荒れ放題の空き地??という感じだったので……。

次は萩城跡です。


『萩城跡/山口県萩市堀内』

輝元入城後、歴代毛利家当主の居城であり雅楽ほか藩臣達が仕えたお城です。
萩の市街地の一番端にある、指月山にたてられています。現明倫学舎からは歩いて30分ほどかかります。
ここは関ヶ原合戦の後、毛利家が減俸によって転封し築城した城で、それ以降幕末まで毛利家の主要拠点でした。
雅楽の先祖も輝元についてこの地に移住しました。

明倫館で学び、十九歳で城仕えするようになった雅楽は藩主毛利敬親の小姓役となり、奥番頭に昇進し、その後敬親の養子である次代藩主の毛利定広の傅役(教育係)を経て藩の重職の直目付となり順調に出世していきます。


毛利敬親には実子がなく、継嗣として萩藩の支藩(藩主以外の血族が持っている領地)である徳山藩から毛利定広を養子としました。この定広の傅役となったのが敬親から厚い信頼を得ていた雅楽です。


うたちゃんと絶対に特殊会話も特殊台詞もあるから絶対に!!!定広公を実装してくれ!!!!と願っています!!!
はよ!!毛利定広公をください!!元徳で来るのかな??!どっちの名前で来るかはわかんないけど取り敢えずください!!!絆にするぞ!??


で、傅役となることになった雅楽は萩城内にある東園の御茶屋で定広公お迎えの事務作業を開始しました。
今の東園には御茶屋跡地と庭園が残っています。ここにはかつて御殿もあり、2012年度と2014年度に発掘調査をした折には陶器や瓦の破片が出土しています。


『萩城跡東園庭園/山口県萩市堀内』

私2014年以降ここには行けてないんですが、今は綺麗になっているんでしょうか?
どちらにしても庭園は写真を撮ってたけど、御茶屋跡地は写真撮ってなかったのでまた今度行ったら撮ります……!

萩城東園で世子受け入れ準備を万端に整えた雅楽は、定広を迎えに徳山藩に赴きます。




『徳山藩館邸跡/山口県周南市徳山 周南市文化会館』

今の周南市文化会館が徳山藩館邸跡です。徳山駅から歩いて25分ほどのところにあり、ちょこっと庭園とかをそれっぽく作ってあります。

かつて敬親が茶道に夢中になっていることを諫めた雅楽が、徳山に赴いた際に茶道が出来なくて恥ずかしい思いをしたと言う話もあったりします。そういう事があって、雅楽も茶道を初めたようです。


徳山から定広と共に萩に戻った雅楽は、その後藩主としての教養品格を身に着けられるようにしっかりみっちり定広の教育に努めます。

教育例一・毎日の日課である勉学を嫌がって二階に逃げた定広が下りてくるまでその階段の下で座って待っている(降りようかと思ったけれど雅楽がいるから一旦諦めて根競べをするも、最終的にちゃんと降りてきてお勉強しました)。
→大戦のうたちゃん、無表情で座っていそうでちょっと怖いかわいい。

教育例二・定広が高価とは言えない弓を貰って喜んでいるのを見て、36万石の世子がおもちゃのようなの弓を貰ったくらいで喜んではならないと膝でそれを折って見せる(弓のこと書いてある資料いっぱいあるけど、なんか少しずつ内容が違って正しいものがよくわからない)。
→大戦うたちゃんの感覚からはなんとなく想像がつかないけど、あの強気具合ならやる気もする。

教育例三・自分が開けた穴をネズミのせいだと雅楽に言われたのが気に入らなかった定広が障子を破壊したのを見て、これくらいの気性があれば頼もしいと褒める(定広がやったというのは知っていてそう言ったのかなんなのか、資料により異なるのでどういう意図だったか気になる)。
→大戦うたちゃんはこれくらいならきっとしれっという。

非常に厳しい養育係ですが、雅楽は定広をとても大事にしていたようで、この主従凄い可愛いな……って思いました。

基本的に傅役は今後の宗家を担う若君の成長にとって非常に重要な役割で、その教育もとても厳しいです。一番身近にいる密接な家臣の為、信頼関係は強固な場合が多いです。

江戸藩邸にいた際に丁度安政の大地震があって、雅楽が定広を抱き抱えて藩邸の障子を蹴破って逃げたという話もありました。


『長州藩上屋敷跡/東京都千代田区 日比谷公園』

『長州藩下屋敷跡/東京都港区 檜町公園』

江戸から幕府の命令を受け、当時野山獄に入っていた松陰の江戸行きを知らせに来たのも当時江戸にいた雅楽でした。
このことは吉田松陰が江戸に移送される旨を聞いてから萩を出発するまでに読んだ詩歌を書いた「東行前日記(五月十四日 午後、家兄伯教至り、東行の事を報じて云はく、「長井雅樂、之れが為め故 ら特に國に歸りしなり」と。)」にも書かれています。
その後伝馬町牢屋敷で吉田松陰が処刑されたこともあり、元々の思想の違いも相まってこれが後々の門下生たちと長井の対立の種となっています。



開国派であった雅楽は『航海遠略策』という「国を開き、世界各国との通商により国力を上げ、外国に対して威信を示す」という策を説き、藩主へその建白書を提出しました。
藩はこれを藩論として朝廷・天皇に提出、「航海遠略策」は公武合体(朝廷と幕府との協力政治体制。航海遠略策はこちらの思想)を推す人たちから歓迎されました。雅楽は幕府への周旋という形で江戸入りし、『航海遠略策』は当時の老中であった久世広周と安藤信正にも受け入れられました。

しかし順風満帆に事が進んでいた最中、安藤信正が江戸城の坂下門外で尊王攘夷派(天皇を尊び外国を退ける思想)の水戸浪士の襲撃を受け失脚します。


『江戸城坂下門/東京都千代田区』

その頃は世論の動きが激しく、世は次第に尊王攘夷に傾いており、長州藩と雅楽を取り巻く環境も一変していました。


ある日、雅楽の「航海遠略策」には朝廷を誹謗する箇所があるとして朝廷から沙汰がありました。
しかし、この誹謗箇所があると指摘している文章と、その文章の前にある文章との脈絡の整合性が取れないことから、「この箇所については第三者が書き加えたものである」という事、「朝廷はこの「誹謗箇所」と言われる部分に関しては気に掛けていない」と正親町三条実愛(航海遠略策推進派の公家)から伝えられていました。

伝えられてはいたものの、一度付いた火は消えず、この「謗詞一件」と呼ばれる一件により雅楽は任を解かれ、萩へと帰ります。

これは当時京都にいた久坂玄瑞をはじめとする反長井、反幕府の尊王攘夷派の画策であり、これを書き加えたのはその中の一人でした。
元々久坂は萩にいる折から幕府主体の航海遠略策に不満を持っていたため、雅楽に対して意見しており何とか藩論を変えるべく動いていました。
桂小五郎の方も中津川で江戸から上京する敬親を待ち、現行の公武合体から藩是を変更するように三日間滾々と説得しています。
 

『長州藩邸跡/京都市中京区 京都ホテルオークラ』


雅楽の計略名である『失墜の献策』はこの「謗詞一件」から雅楽が失脚する流れから来ているのだと思います。
【長井雅楽の地位と名誉を失う切っ掛けとなった献策】と言う解釈をしたらよいのか、【「航海遠略策」が『失墜の献策』】と言っているのか……そのあたりは各々の解釈ですが。
効果終了時に長井雅楽の撤退⇒士気バックというのも、公武合体派の『航海遠略策』を掲げた長井雅楽が失脚し、藩論が久坂の掲げた『廻瀾條議(かいらんじょうぎ/師の松陰の名誉回復と反幕府、朝廷への実権復帰、海外との対等な条約締結)』に変わったことで尊王攘夷派が盛り返したということなのでしょう。



上手く出来てる計略だ……流石セガさん。ということは『失墜の献策』で戻ってきた士気で『御楯の烈士』を打つのは正しい……。



久坂玄瑞たちは雅楽が萩へと帰る道中で雅楽暗殺を計画しますが、それは失敗に終わります。


『法雲寺/京都市中京区』

雅楽暗殺に失敗した久坂たちが謹慎に入った寺は京都に残っています。

久坂はこの暗殺計画の理由を示した建白書や「長井雅楽弾劾建白書」といった雅楽弾劾の文書を山盛り書いたこれらを藩に提出しています。
その後雅楽は藩の責任取る形で切腹を命じられます。
長い間自分を支え、面倒を見てくれていた雅楽の切腹を伝えられた定広は、心痛により食事をとることが出来なかったと言われています。

凄い執念……びっくりする。
しかし実際親長井派の人間が大勢おり、長井自身の実績と智弁を以ってひっくり返される可能性があったことは確かなので此処まで徹底的にしないといけなかったのは、なんとなくわかります。
しかし久坂の『廻瀾條議』からもわかるように、やはり彼を此処まで至らしめたのは松陰への強い想いでしょう。


そして、ここは萩市の土原にある長井雅楽旧宅地です。


『長井雅楽旧宅地/山口県萩市土原』

萩の明倫学舎から徒歩10分くらいの場所にあります。
長井雅楽が切腹して果てるまで暮らした屋敷の跡地です。昭和50年くらいまでは屋敷が残っていて門もあったようですが、現在は全て綺麗に取り壊されて碑のみがあります。
『萩市郷土博物館研究報告』第12号に長井雅楽旧宅についての調査報告があり、玄関、厨、風呂、切腹をした間を含む部屋の間取りが載っています。


1863年3月24日、長井雅楽はこの土原の自宅にて45歳の人生を閉じました。
長井雅楽の切腹時にそこにいた人物、席次、状況は様々な書物に書かれており、それは古来からの作法に則った立派な切腹であったと言われています。


辞世の句 「君がため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ」


高杉晋作の父である高杉小忠太と雅楽は長年定広の臣下として務めた友人同士であり、雅楽は小忠太宛てに身の潔白と妻子の事をしたためた手紙を送っていました。その手紙にも雅楽は「ただ思はるる国のゆくすえ」で〆られる句を添えています。
この時の切腹の切腹検視役正使は国司親相という人で、戦国大戦にいた国司元相の家系の方です。雅楽が切腹した翌年、この人も禁門の変の責任を取るという形で切腹をしてこの世を去っています。


雅楽の墓所は山口県萩市の海潮寺にあります。


『海潮寺/山口県萩市古萩』

この山門から入った左手にある墓地入り口近くの右方向に長井家の墓所があり、長井家代々の墓所と並んで長井雅楽の墓所があります。
墓碑銘は「大江姓 長井時庸之墓」と記されています。
墓所の写真もありますが、一応ここでは載せない事としました。気になる方はTwitterにてお声がけいただければ写真をお送りします。


雅楽に対しての処罰がこれで適正だったのかは私にはわかりません。
恐らく死なずに済む道もあったかとは思います。けれど今の世は彼が此処で切腹したから有った未来だとも言えます。
雅楽に限らず、松陰が処刑となり久坂たちもまた禁門の変で散っていく……すべての人たちがそういう結果であったからこそ今に繋がっています。


『まだ見ぬ誰かの為、私は戦っている』そう絆台詞で言う雅楽もまた、まだ見ぬ未来を生きる知らない誰か……私たちの住む日本が良い国になるよう戦っていたのだと思います。


とても長くなりましたが、これで英傑大戦で長井雅楽にハマった歴史オタクのまとめを終わろうと思います。
ここまで読んでくださり、どうも有難うございました。


武将会話と特殊台詞とグッズをください!!ぷち長井も欲しいです!!
緋江戸・幕末、長井雅楽をどうぞよろしくお願いいたします!


2023/07/22追記

キャラバン愛知のプレゼン企画にてスクエア缶バッジ化決定しました!!
どうも有難うございました!嬉しい、うたちゃん!!




※参考図書※
『長井雅楽詳伝 特装版』中原邦平 マツノ書店 2015年
『長井雅楽』長井雅楽顕彰会 1962年
『萩市郷土博物館研究報告』第11号 道迫真吾「資料紹介「長井雅楽ニ関スル談話」」 萩市郷土博物館 2001年
『萩市郷土博物館研究報告』第12号 柏本秋生「長井雅楽旧宅について」 萩市郷土博物館 2002年
『維新への胎動(上)寺田屋事件』徳富蘇峰 講談社学術文庫 1993年
『維新への胎動(中)生麦事件』徳富蘇峰 講談社学術文庫 1994年
『山口県地方史研究』117号 相島宏美「二つの航海遠略策」 山口県地方史学会 2017年
『山口県地方史研究』118号 上符達紀「長井雅楽の「贈位」について」 山口県地方史学会 2017年
『山口県地方史研究』120号 相島宏美「長井雅楽失脚・切腹の原因について」 山口県地方史学会 2018年
『長井雅楽周旋に関する世論に就いて』杉敏介 温知会 1936年

『山口県史 通史編 幕末維新』山口県刊行物センター 2019年
『萩市史 第一巻』萩市史編纂委員会 1983年
『訓註 吉田松陰詩歌集』福本義亮 マツノ書店 1990年
『国司信濃親相伝 復刻版』堀山久夫 マツノ書店 1995年
更新日時:2023/09/06 00:19
(作成日時:2023/07/04 22:39)
コメント( 4 )
4件のコメントを全て表示する
栗花落
栗花落
2023年7月11日 8時5分

pajamaさん⇨
長いですが読んで下さりどうも有難うございました!コツコツ長年色々行っていたので、写真を色々使うことが出来て嬉しいです!
結構皆さん大戦で知ってから東京の松陰神社に行っている方がいて、嬉しいです!
うたちゃんの台詞、最高です!聞いた瞬間に「うわあ……!なんて事を言うんだ!」って思いました。最高の言葉です!

pajama
yunatogirls
yunatogirls
2023年7月12日 17時47分

長井ファンですか、これはまた珍しい。群雄伝ではちょっと登場していつの間にか居なくなっていましたね…。
私はテキストで書いてある事しか知りませんでした。
え、長井家と神社まで調べたのですか、すごいですね。
 
萩城跡。堀と石垣だけ残って本丸は山林に戻ったのでしょうか?
まあ残っているだけでもありがたいというべきか。
 
長井君に限らず切腹で果てた人は多いですね。
幕末は動乱の世の中、昨日の正義が今日は非道というのは良くある時代です。
もうちょっと穏便に済ませられなかったのかと思いますね。
切腹しろ会議をお互いに何度も開いているような…。コワイ時代です。

栗花落
栗花落
栗花落
2023年7月15日 23時32分

yunatogirlsさん⇨
長い記事ですが、読んで下さってどうも有難うございます!
英傑で長井雅楽にハマりました。調べてみて「群雄伝のあそこはこの部分の事ね……」ってなりました。
一応先祖がどうなのかとかはちょっと気になってしまうので調べました。神社はたまたま有ると知ったので、知った時はテンションが上がりました!

萩城址は本丸その他が解体されてからは石垣と山林になっていますね。要害があった指月山(写真の後ろの山)は現在は国指定天然記念物です。
残っているものがある、たしかにそれが有難い限りです!

仰るように思想と責任が日々の情勢で目まぐるしく変わるので、久坂のように手心を見せて足元を掬われないように徹底的に……と言うのは仕方なかったのでしょうね。切腹しろ会議、そこら中でありましたからね……。
コメント頂きまして、どうも有難うございました!

yunatogirls
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