曹仁、という人を知っているだろうか。
そう、三国時代の武将、緋の2コスト騎馬7/6気合、難攻不落持ちのあの男である。
曹仁は一応、三国時代の中では多分有名な方だろう(希望的観測)。しかし、英傑大戦プレイヤーの中には「そもそも三国志知らん!」という方も多いのではないだろうか。そこで私は考えた。
よ~~し何も知らない読者に曹仁のくそつよイメージを植え付けてやろう
英傑大戦をより楽しむためにも、曹仁について知ってもらおう……と。
そういうわけでこの投稿では、曹仁がどんな人だったかについて史実をメインにご紹介していきたい。
とはいえ詳しい戦歴はWikipediaなどに載っているため、ここでは曹仁のイメージについて、軽いノリで触れていきたいと思う。
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まず曹仁のざっくりとしたイメージを掴むため、史書における評価はどうなのか? というところからスタートしてみよう。
三国志曹仁伝の注釈は以下のように記す。
傅子曰。曹大司馬之勇、賁、育弗加也。張遼其次焉。
この文は、簡単に言うと「こいつ張遼より強いよ」と言っている。
流石に曹仁と張遼のどちらが強いかについては、きのこたけのこ戦争並みの戦争が起きる気がするのでここでは比較を差し控えるが、魏の筆頭武官であることは間違いない。
要するにクソ強いのだ。
いいね。
強いのだ。
では、後世はともかく当時はどんな評価を受けていたかというと、こんな話がある。
太祖平黃巾迎天子都許、仁、數有功拜廣陽太守。太祖、器其勇略、不使之郡、以議郎督騎。
曹仁が広陽太守に任命されたものの、曹操は曹仁を評価していたから騎馬隊のまま手元に置いた、という話である。まさしく曹操からの曹仁の武勇への信頼が見えるエピソードだ。
ちなみにこれは許に首都を置くときの話だとされている。いわゆる新野の戦いや、赤壁の戦いよりも前の話である。曹仁は若い頃から曹操に信頼され、騎馬隊を率いて獅子奮迅の活躍をしていた。官渡の戦いでは袁紹が出した別動隊をひたすら叩き潰したので、袁紹が凝りて別動隊を出さなくなった、なんてエピソードもある。
曹仁に一定のフォーカスを当てている作品であっても、演義の要素を取り入れることが多いゆえに、曹仁は最初弱く、のちに覚醒した武将として描かれることがあるが、史書は明らかに最初から曹操の信頼を受けたクソ強武将であると言っている。いいね。
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さて、なんかクソ強いと史実で評価されている人だということは、ぼんやりとわかってくれたと思う。
では実際の戦ではどんなエピソードがあるのか? ということで、ここでは一番有名な「江陵の戦い」の話をちょっとご紹介しよう。
江陵の戦い。
この戦いの経緯を簡単に言うと、赤壁の戦いに勝利した周瑜が、勢いに乗って荊州を攻め取ろうと進撃した戦いである。あまりに赤壁が有名すぎてこっちが省略されがちなのはご愛敬。赤壁の戦いすら知らない読者諸兄には、当時ノリにノっていた曹操の侵攻が疫病と火計により躓いたところでカウンター的に周瑜が曹操の領土を奪おうとした戦い、くらいのイメージを持ってもらえれば良い。
そしてこの周瑜軍を迎え撃ったのが、この時江陵に駐屯していた曹仁であった。彼は周瑜軍の先鋒の丁奉隊が数千の兵を率いて江陵に接近してくるのを見て、まず配下の牛金に三百の兵を与えて迎え撃たせた。
ここでなんで三百しか与えなかったんだ! というのは恐らく読者の尤もな疑問であるが、知らん。
そして案の定、牛金は丁奉に包囲され、命も危ういかと思われた。そこで曹仁が動く。
將其麾下壯士數十騎、出城。去賊百餘步、迫溝。矯等以爲、仁當住溝上、爲金、形勢也。仁徑渡溝、直前、衝入賊圍。金等乃得解。餘衆未盡出、仁復直還、突之、拔出金兵。亡其數人、賊衆乃退。矯等初見仁出、皆懼。及見仁還、乃歎曰「將軍、真天人也!」
もうこのエピソード意味が分からないのだが、こいつ、なんと精鋭数十騎で城外へ飛び出したのである。当然、それを見ていた陳矯はまさかそんな兵数で丁奉軍に突っ込むとは思わないので、曹仁が堀の側で一旦止まると思ったのだが、曹仁はそのまま堀を超えて突撃。牛金を救いだして一度戻ると、まだ牛金配下の兵が包囲されていると知りもう一度戻ってこれも救出して帰ってくる。
……何してんの?
その時曹仁は、「将軍は真に天人である!」と褒められている。これこそが曹仁クラスタが永遠に擦っている「天人エピソード」というものである。とかく非凡な武勇の持ち主であったことは、察していただけるかと思う。早く二つ名につけて
曹仁は若い頃は騎馬隊を率いて暴れ回ったが、赤壁の戦い以降は上述のように荊州の争奪戦で力を発揮した。赤壁で勢いに乗った周瑜軍を江陵で一年抑えた功績は大きいだろう。この後周瑜は病に倒れ、計画していた益州攻めや天下二分の構想を実現することはできなかった。江陵は奪われたとはいえ、ある意味では痛み分けと言える。関羽軍が攻めてきた樊城の戦いでは、水没した城にありながら将兵を鼓舞し、二心を抱かせず必死の覚悟で守り続けた。結局徐晃の援軍が来るまで耐えきり、関羽を追い返すことができた。
荊州は非常に重要な土地であり、魏そのものが何度も曹仁に救われていると言っても過言ではあるまい。
様々な人から評価されており、実績十分。
もうなんかいいところばっかりだな! という感じだが、最後に彼の個人的なところを紹介しよう。
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曹仁の個人的な人柄に関しては、面白い一節がある。
仁少時不脩行檢。及長爲將、嚴整奉法令、常置科於左右、案以從事。
この文章は、曹仁は若い頃やんちゃしていたが、成長して将になると、厳格に法律を守っていつでも条文を手元に置いていたよ、ということが書いてある。
そう、なんか一言多いのだ。
「仁少時不脩行檢。」
若い頃、何してたんでしょうねえこいつ!!!!!
余談だがこの「若い頃やんちゃしてた」話は、実は某無双系ゲームでも取り上げられている。あのフルアーマー堅物曹仁がやんちゃしてた頃は一切想像がつかないのだが、いつか描かれる日は来るのだろうか。……ビジュアルを知らない人は「曹仁」って調べるとすぐ出るよ。
曹純伝(曹仁の弟の伝)にも、若い頃にオヤジが死んだけど曹仁とは別に暮らしていたので曹純が家を継いだという話が出てくる。本当に若い頃、こいつ、どこで何をしていたんでしょうね。山賊でもやっていたのか? ちなみにこのエピソードはR曹純の特殊会話で取り上げられており、英傑の二人はこのことについて軋轢があるわけではないようである。一安心だ。
文章の後半にある通り、成長した曹仁は法を遵守する将となった。これに関して曹丕が曹彰に「法を守ること、曹仁のようにやれよ!」と手紙を送っており、あの曹丕にも信頼されていたのだから相当ちゃんとした人になっていたのだろうと思われる。まあ、なんだ。良かった良かった。
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いかがだっただろうか。
今回は彼の記述の中でも、曹仁のイメージ形成に貢献すると思われるエピソードを抜粋してご紹介した。他にも様々なエピソードの残っている人なので、もし気になったら是非Wikipediaのページを見てみてほしい。彼の生涯について、まとめて知ることができる。
あとこの文章は曹仁狂いで曹仁贔屓の人間が記載しているため、割と曹仁の良いところばかり書いていることは留意されたし。朱桓に負けた話とか絶対書かn
では、曹仁伝の最後の一節を置いて、この文章を終わろうと思う。
而牛金、官至後將軍。
──なお牛金は後将軍にまで昇進した。
牛金、おめ!!!!!!!!!!